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旅に思うこと

休職寸前に追い込まれた私は、7月に千葉・南房総を、8月に大阪と京都を旅していた。「海を見たい」と南房総を選んだ時点でお察しの通りだが、その頃から私の心はあまりよくない方に傾いていた(海を見たい=胎内回帰:母親のお腹に帰りたい、気持ちの表れらしい。後から知った。)。

つまり、どちらの旅も「日常から逃げたい」気持ちに発したものだった。「ここへ行きたい・○○が見たい・△△を食べたい」から行くのではなく、仕事が侵食しすぎた自分の日常に嫌気がさし、そこから「逃れたい」一心で船や新幹線に飛び乗ったというわけだ。学生の頃から「自分を満たすこと=旅行!」の方程式しか持ち合わせていなかったこともあり、それ以外にご自愛して自分を立て直す方法を、当時の私は思いつかなかった。

結果、南房総も大阪・京都も、なんとも後味の良くない記憶になってしまった。もちろん、ホテル屋上の大浴場から見た夕暮れの海は最高だったし、劇場ではじめて生で見た見取り図の漫才に感動したのはどちらも本当のことだ。

しかし、記憶にこびりついているのは、薄暗くなった浜辺を裸足で眺めていたとき(怖!)の気持ちとか、清水寺で仕事のことを考えてしまい涙が止まらなくなった時に飲んでいた抹茶の味とか、そんなことばかりなのである。

「そんなこともあったなぁ」と懐かしく思い出せる日がくるとは思っているけど、南房総の海も、漫才劇場も、それ自体を純粋な気持ちで楽しめた方が絶対にいいと思うのだ。美しい景色・楽しい場所・おいしいものを自ら進んで「ネガティブ自分」と一緒にして記憶する必要はないのではないかと、今なら思う。


それらの対比として、一年前に旅したモロッコやトルコがどんなに美しく穢れのない思い出であることか。カメラロールで酔えるほど、心から愛する記憶だ。


そして、休職期間にいろんな「ご自愛」の方法を試してみて分かったのは、「自分の”内”を整えない限り、”外”の刺激を100%で享受できない」ということ。五感が鈍りまくった状態で旅に出ても、外の絵も風もにおいも、充分に味わうことはできないと気付いた。

学生時代は、旅だけが自分を満たす方法だった。でも、ストレスとうまく付き合っていかなきゃいけない今は、”内”=自分の身体や暮らし周りを整えることで、自分を保っていきたいと感じている。日々ちょこちょこと自分の五感を失わぬよう努力して、その先に「旅」があればいいなぁと、思うのである。


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