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思い出はつくられる、という話

そのときどきで何を思ったか、どんな選択をしつつあるのだと納得して意思決定して行動したか、そんなことは内心の自由に属する問題ですので、自分の好きなようにいつでも書き換えることができます。

東大文学部の「教員エッセイ」のテーマ『私の選択』のなかで、こんな記事を見かけました。確かにそうだなぁと思ったので、今日はこの話をシェアしようと思います。

>> 思い出は作られる - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

ただ厄介なのは、記憶は作られる、ということです。私の「自伝的記憶」は、常に真実であるとは限らない、むしろ真実でない方が都合がいい。アイデンティティを守るためには、自分の過去の記憶を塗り替える。みんなやっていることです。(中略)

私がある時期に何か重大な選択をしたかしないかのような振り返りをしている瞬間に、私は自らの「自伝」を現在の自分のアイデンティティとつじつまが合うように心の中で創作物として自動的に都合よく編集しているわけです。

それゆえ、大学院修了直後にその直前の履歴である自分の学部生時代の思い出を語る場合と、今この瞬間にはるか昔である自分の学部生時代の思い出を語る場合とで、同じ時代に関する記憶のはずなのに、まったく異なる見解をもつことがあります。そしてその方が人間としては自然な振る舞いなのです。

未来の自分が過去のこと(=今)を振り返ったとき、「〜した」という事実は今後も変わりません。だけど、その行動を通してどんなことを感じたのか、考えたのかは、未来の自分が今の段階の自分を振り返ったときには、つくられる可能性があるということ。

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他にも、こんな記事があります。この記事の本題とはずれるんですけど、今回の話のなかで使えそうな箇所があるので、少し引用します。

>> 課題解決の全体像 (ver. 0.0)

邪悪な部分と善良な部分を全て合わせてその人なのであって、悪い部分や良い部分だけを切り出すと何かがおかしくなる。 でも、僕たちは往々にして人の一面をクローズアップして、それをその人と同定する。

「人」はいろんな面を持った集合体のはずなのに、ある部分だけを切り出すと何かがおかしくなってしまうわけです。

未来の自分も、当時の自分のなかで大きく占めていた部分を切り出して当時を振り返るわけですが、今の自分は必ずしもそれだけを考えていたわけではありませんよね。いいこともあるし、悪いこともあるし、幸せなこともあるし、不幸せなこともある。なのに、それらをちょっと盛ったり取捨選択したりして、“記憶はつくられてしまう” わけです。

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今こうやって、noteに “自分の内面” を書こうとしていることは、未来の自分に対して書いているという意味合いもあるなぁと感じています。勝手に自分の過去をねじまげんなよ、と。

(Photo by Multa Media on Unsplash)

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