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わたしがデザイナーの道を選んだ理由、18年目に思うこと

こんにちは!ユキックス(@MILKIT_DESIGN)です。

今回は 「#この仕事を選んだわけ 」というお題を見つけたので、
わたしがデザイナーになった経緯を綴っていこうと思います。


幼少期


埼玉県さいたま市で会社員の父、専業主婦の母、3歳離れた妹のもとで生まれ育ったわたしは、幼稚園の頃の夢はケーキ屋さん。

1989年 マザー牧場にて

物心ついた時には師範だった祖母から習字を習い、近所の音大卒の先生のもとでピアノを習い始めていた。

毎年出場していたピアノの発表会で連弾

早々に余談だが、小学校教諭を務めて習字の師範であった祖母の部屋には当時ガリ版刷り用の鉄筆やヤスリの台、ロウ引きされた紙などの道具一式が置いてあって、幼稚園児だった当時のわたしにとってはとても興味深く、幼ながらに祖母がガリ版で器用に原稿を彫っていく姿を見ていたり、道具を触らせてもらうこともあった。刷り上がったわら半紙と青いインクの印刷物、そのにおいがとても記憶に残っている、そんな昭和の終わりだった。

小学生 - 中学生


平成を迎えてすぐに当時の浦和市から大宮市へと引越し(共に現在のさいたま市)、小学生の頃は少女マンガやギャグ漫画(りぼん愛読者)にどっぷりで漫画家や画家になりたい時期を経て、高学年になると女子アナもいいな♡(このキャラでよく思えたな‥)なんて思いつつも演劇部に所属した。(声だけは大きかったのと、当時、安達祐実さんに憧れたのが演劇部を選んだ理由)

不思議の国のアリスでアリス役(小4の頃)

中学生になると吹奏楽部に入りつつ(担当はトランペット)絵を描くことと美術の時間が好きで、小さな賞をいただいたり先生方から度々プリントや文集の挿絵を依頼されて自信をつけ、学年や学校、生徒会の印刷物に関わるなどのチャンスがあった傍ら、服作りにも憧れていた。

当時、篠原ともえさんとご近所物語(矢沢あいさんの漫画)の影響も手伝って芸術やアート、ファッションなどに強い興味を持ち、親にアムラーのブーツではなく厚底スニーカーをねだり、お小遣いを使って手芸屋で素材を買い、"欲しいのに売っていない服やアクセサリー"を手作りして制服以外の時間は身に纏うなどして過ごしていた。

ZipperやCutie、KERAなど雑誌の中の世界に憧れ、わたしは美術や表現の道を行きたい!と、漠然と思っていた。

中学校の文化祭にて(写真右)


このあたりからだろうか、自分の”やりたいこと”がその時々で明確になってきた。ただ好きだからもっとやってみたいという欲求と情熱だけで美大附属校に絶対行きたい!と意志を早々に固め、デッサン塾や絵画教室に通わずとも強すぎる希望を持って水彩画のテストと面接に挑み、ラッキーなことに倍率2倍以上の推薦入試で合格を掴んで運良く入学を決めた。

高校生

高校生になると埼玉から片道1時間ほどかけての都内通学になり10年以上続けたピアノをあっさり辞め、定期券を最大限にフル活用し刺激を求めて毎日のように原宿や新宿に出没するようになる。

生地屋、画材屋、古着屋、ストリートブランド、ファッションビル、ストリートスナップ‥あらゆる影響を受ける中で嵌っていた音楽の影響を受けてバンドをはじめたり(ボーカルと鍵盤)、欲しいと思うものを買い、練習スタジオ代や遊びに使う軍資金のためバイトを学校に内緒ではじめたり地元のデパ地下で販売のバイト、卒業まで身バレしなかったけどバイト禁止の学校で‥良い子はマネしちゃ駄文字数)校則が厳しい歴史ある学校で息苦しさを感じながらも美術の基礎や応用を徹底的に学ぶ時間は特別で、ほぼ毎日実技の授業があったので学校へは無遅刻無欠席無欠課で3年間通い通した。

高校の修学旅行で行った京都、北野天満宮にて。(写真中央右)

そんな環境に身を置いた多感な時期に身近になった街とストリート、パンクファッションと音楽そのものが自分の世界であり庭のように感じ、そこで薄々と気付いた。

わたしは音楽、美術、服などの手段で何か自己表現をしたいのだな、と。
だがこの時、目的は”自己満足”で、明らかに”誰かのために”ではなかった。

当時書いていた歌詞(いわゆるポエム)も、自分ごとばかりで、常に”あたしは!"こうなの!!あなたはそうだから!!でしょ?みたいなこっぱずかしいメッセージばかりで見るからに黒歴史だったのである。

17歳から18歳になり高校卒業が近付く頃、浦和のライブハウスにて(写真中央)

この頃わたしの葛藤は、こちらでもより詳しく紐解いています。
https://milkitdesign.jp/100q/

美大生


進学はそのまま附属の美大へ。絵画などキャンバスにずっと向かっているよりも実用性のあるプロダクトとか動きのあるものなど”何か楽しいこと”がありそうな方向に惹かれ、希望した造形学科テキスタイルデザイン専攻に進学した。

この頃はバンド楽しい!すきな服を着ていたい!くらいで特に目的もなかったので、その場その時が楽しければいいや!と気楽に考えていたにもかかわらず高い学費を払って美大に行かせてもらっていたことに後々気付き、いま考えたら両親に申し訳なかっ文字数

その時々の気分で、したいと思った格好を全力でしていた。(左 - 関西のストリートスナップ誌)(右 - 雑誌KERA巻頭パンク特集ページ)


美大の在学中は実技を全力で楽しみ(シルクスクリーン、染色、暗室で写真現像、漆塗り、螺鈿細工、機織、硝子、金属、彫刻、版画、粘土、その他工芸などあらゆる実技を経験したと共にMacでPhotoshop、Illustratorを本格的に扱ってグラフィックデザインを制作したのもこの時期が初めてだった)毎日の授業が実技の実践で、刺激も多く特に楽しかった記憶。高校は基礎で徹底的に固められていた分、大学は本当に自由度が高くて表現も柔軟だった。

しかし講義を伴う学科に当時は興味が傾かず、卒業に必要な最低限の単位しか取らずに終わる。(今では特に西洋美術史、日本美術史の深い講義も真面目に受けておけばよかった、、と思っている)

バイトは飲食から雑貨販売(宇宙百貨)、日払いなど、髪色服装自由を基準に在学中に色々やってみたが、時給と時間軸の兼ね合いが良かった地元のカラオケバイトに落ち着いた。

そうしているうちに卒業を考える時期となり、周りの学友が真剣に就活中の時期にもわたしは構うことなくバンドやバイト、ライブハウスでファッションショー(見て!このコーディネート世界観がめっちゃいいっしょ!最高に痺れない?っていう気持ちで人の目を惹くことが楽しい&見た人のリアクションが嬉しくてやってた自己満の延長)をしたり、ストリートスナップでお声がけいただき雑誌の企画に読者モデル枠でちょい載り程度に出たり、相変わらず実家暮らしでやりたい放題好きなことだけをして遊び続けて生きていた。親との衝突も絶えなかった。

美大卒業の頃(写真左)

そもそもスーツ(または制服)着て会社勤めなんて願い下げ!髪型服装自由主義!なわたしにとって一般的な就職はストレス爆発済みで無理だったし、っていうか絶対ヤダわ!と思って周囲にも公言していたことで両親も呆れており、もう好きにしなさい!とお手上げ状態だった。

この頃はバンドとすきな服があれば、楽しく生きていけた。

もう自分のことしか考えていなかったし、型に嵌りたくない劣等生が、わがままに本能のまま生きてきたんだなぁと本当に思う。(ごめんね父母。)

もっと遊んでいたかった!


卒業後はやりたいこと=目的を探すため、とりあえずフリーター(アルバイト)に。両親から、出て行け!とは言われなかったので(あまり家には居付かなかったが)実家暮らしに甘え、バイトは学生の頃から継続していたので単純に勤務時間を準社員さんくらいに増やしてもらった。(あの頃は成人こそしていたけれど考えが甘かったし、周りの人に守られていたんだな、といまではすごくわかる。。)

バイト先の印刷物やメニュー、ポスターなどのグラフィックデザインは美大出身という理由で在学中からほぼ私が作っていてスキルをとても重宝され、可愛がっていただいたのがありがたかった。

わたしが自由に使える時間もお金も学生の時に比べれば少しだけ増えてきた(実家暮らしだった)時期、バンドやファッション関係で時間を共にしていた仲間は若くして家庭を持ったり年齢的にも就職したりと皆続々と落ち着きはじめてしまった。なんだ、みんな急に現実追いはじめたな‥って思った。

僅か1年足らずの短い間に仲間がみんなそれぞれの道に落ち着いてしまったのがとてつもなくさみしくて、虚無感でいっぱいな時期のことをいまでもおぼえている。

”わたしはまだまだ、もっと遊んでいたいのに”が、本音だった。

なりたい自分 と すきなこと が、繋がった瞬間


卒業後からフリーターとして淡々とバイトをしていた2005年後半、めちゃめちゃ好きだけど高価すぎて時々しか購入できない(中学生の時から雑誌を見てて純粋に憧れていた)あるデザイナーズブランド主催の10周年を祝うファッションライブイベントを雑誌で見つけ、満員御礼SOLD OUTの新木場STUDIO COASTへ!相方(彼氏)を道連れにして観に行った。

これが後に、自身にとって大きなターニングポイントとなった。

その日のショーはもう圧巻‥圧倒的で完璧すぎる世界観だった。
わたしのすきな世界とやってみたいことが凝縮されて詰まっていたのだ。すっかりまるごと心をかっ攫って持って行かれた衝撃オーディエンス・人を惹きつけるエネルギー、尋常じゃないパワーと魅力がその日、イベント内のショーとパフォーマンスの端々まですべてに詰まっていた。

服で、ファッションで人の気持ちを動かすってこういうことなのだ。
点と点が繋がった瞬間だった。

新木場STUDIO COASTにて、ポラロイドで撮った1枚。


その日があまりにも衝撃的すぎて、手の届かぬ場所にあることはわかっていたけれど抑えきれない気持ちが燃え上がった熱量のまま、夢中でその会社のことを調べ、企画職デザイナー若干名の募集を発見!これが、運命だった。

作り手側の人、デザイナーになることを確信した


飛び込む以外の選択肢は考えられなかった。心はもう夢中だっだ。

この会社と関わりたいし絶対働きたい。そう、絶対作り手側の人になる。
想いは強い!この時、初めてそんな確信を持った衝動に駆られた。
いますぐにできることは全部、何でもしようと思った。

募集要項の最初の関門は書類選考だった。
履歴書とスタイル画(デザイン画)の提出である。画材は既に手元にあったので次の日から1週間ほど完全に引きこもり、バイトも交代を見つけ、頻繁に会っていた彼氏との約束も完全にセーブして入魂のフルカラー解説付きスタイル画をとにかくたくさん描いて納得いくものだけを郵送で提出した。

全部で何枚描いたかは、はっきりおぼえてない。精査して提出したのは20〜30体くらいだったと記憶している。わたしの判断基準はこのブランドでこんな服があったらわたしが着たいし買いたい!と、本気で思えるもの。

数日後に電話で、書類選考を通過した旨の連絡が来た。矢継ぎ早に、次の面接日程が指定された。それが2次選考の面接だった。
折り合いの悪かった両親へ伝えると、高校が決まった時くらい喜んでくれた。(が、まだ最終面接ではない。)

2次選考の面接は当時ブランドの親会社があった本社屋で行われ、ブランドイメージとはかけ離れた、社長、課長、専務との複数人面接だった。見えない圧力に若干ビビリながらも、その時精一杯のお洒落をして、盛ることなくあるがままの自分で、ブランドに対する想いと熱意、思いの丈を伝えた。やれることはやった、わたしは本気だった。

憧れのデザイナーはこの時面接には現れなかったが、奇跡的に2次選考の面接も通過した。そして次が、デザイナーとの最終面接であることが告げられた。

ついに、ここまで来たのだ。

あの日ファッションショーのステージに立っていた、ランウェイでカーテンコールの中心にいた、あの憧れのふたりのデザイナーとの直接対面である。

最終面接は、4〜5人の集団面接だった。あのイベントを開催するレベルの超人気ブランドの企画職デザイナー候補は、蓋を開ければやはりこんなにいたのだ。わたしは何を話したか、正直よくおぼえていない。ただ、ふたりのデザイナーを前に思いの丈と熱意を自分なりに愛を込めて、全力で伝えた。

緊張とリスペクトで、ちょっと泣きながら。

わたしは服飾デザイン科の出身ではなかったので他の候補者とは明らかに環境が違っていることを、そこで初めて感じた。しかし良い意味で周りのことが目に入らなかったし、何よりも絶対的に自分を信じていた。

やれることはやったし、わたしは本気だった。(n回目)
そこまでにできることは全力でやったし、伝えたいことはすべて伝えた。
あとは、結果を待つのみ。

最終面接の翌々日くらいだろうか、選考結果を知らせる電話が来た。

来月から来れますか?

その時のことは、今でも鮮明に思い出せる。もちろん、わたしは迷わず即答した。これがデザイナーとしての一歩、自分の道を切りひらいた瞬間だった。

後々知ったのだが、この採用タイミングでデザイナー候補として入社できたのはわたしひとりだけだった。この時はまだ、デザイナーへの切符をただ手にした、という段階だった。

強い目標に向かうため、熱量を全力で伝えた


入社して最初の半年は直営店舗に配属され、ブランド理解を高めるためにお店で販売員をしながらほぼ毎週スケッチブック1冊分スタイル画(デザイン画)を描いてふたりのデザイナーへ託した。

店長や販売の先輩スタッフは、販売員のひとりとしてブランドを守るためのルールを徹底的に叩き込んでくださった。みんな煌びやかで美しく、外見から内面まで尊敬できる方たちばかりだった。

自分がブランドの一部である自覚を持つようになり、世界観に染まった。

お客様や販売スタッフのコーディネートを毎日リアルに肌で感じることができたことで、もっとこんな商品がお店にあったら良いなとか、この人はこんなデザインの服も似合うだろうな、と想像力の幅がぐっと広がった。

多様な客層を知るためにファッションビルへの異動があってもスタイル画(デザイン画)の提出は変わらずに続けていた。ふたりのデザイナーが時間を割いて描いてくださるフィードバックが、いつもとても嬉しかった。リクエストがあるとうれしくて、想像を超えるものを描きたい!と、心が踊った。

過酷なセールの時期で声を枯らしても欠かすことなく、本社オフィスでデザイナーとして働きたい一心で、スタイル画(デザイン画)を提出し続けた。

誰かに言われたり催促されたわけではないけれど、おそらくこの期間にアウトプットがなかったら販売員だけで終わってしまう気がしていて怖かった。早くデザイナーとして認められたい!絶対ここで埋もれたくはない!という強い意志と目標があったから、続けられていたのだと思う。

そして入社から半年後、ついに本社オフィスへの異動が決まった。

デザイナーである実感


そこからはデザイナーとしての日々が、目眩く過ぎていった。現場では即戦力を求められ、早々に商品をデザインさせてもらう機会に恵まれたことは今でも感謝に尽きない。

はじめて自分のデザインが商品化したときのこと、
街で自分がデザインした服を身に纏っている人を見つけたときのこと、
雑誌で特集が組まれて自分のデザインした商品が取り上げられたこと、
自分のデザインした商品が表紙を飾るようになったこと、
展示会でうれしい反響をたくさんいただいたこと、


デザインした商品が予約完売・店頭で即日完売してお問い合わせが絶えず
追加生産が何度も決まったこと、

デザイナーになったからこそ味わうことができたいくつもの感動や体験はいまでも強く憶えているし、どれも忘れられない。と共に、自社のブランド力が持っているパワーや強さ、影響力も本当に感じていた。

その頃はもう、自己満なんかじゃなかった。

身に纏って喜んでくださる誰かのために気持ちが突き動かされていたし、
高い金額を払って自社の商品を選んで購入してくださるお客様の表情や世界観を創るシーズンコレクション撮影のモデルやロケーションを想像してのデザインと服作りだった。

何よりも自分の生み出したデザインで誰かが楽しい気持ちになったり、笑顔になれたり、喜んでもらえたり、想像を超えるサプライズなことができるデザイナーという仕事の尊さに充実感をおぼえた。この頃のすべての経験が現在に繋がっていることを、いまでも実感として感じている。

お気に入りな自社のアウターを着て、DisneySeaにて。

知らなかった世界を知り、20代のすべてを仕事に捧げたと言っても過言ではない。早々な段階で終電を逃すことが増え、埼玉の実家を飛び出して本社からほど近い近隣区の自転車圏内に住み始めた。

会社に所属してブランドのインハウスデザイナーとして貢献できた実感や手応えをリアルに感じられた日々は、本当に宝物のような記憶ばかりだ。

この会社にデザイナーとして所属したことで、わたしは人生と世界観が変わったし、無名のデザイナーとして表に出ることはなくとも、デザインのお仕事が何よりも楽しくて居心地が良く、大好きな服、尊敬する人に囲まれて仕事をする日々が幸せだった。

それから10年が経ち、私は骨を埋める覚悟まで公言していたほど大好きだったその会社を、辞める決断をした

”人の感情を動かす仕事”をたくさん経験したし、過酷だったけど毎日が本当に素晴らしい体験の連続だった。実際に働いてみなければ知ることのなかった価値観や世界に触れ、気付いたら最前線で流行やトレンドを仕掛ける側になり、振り返ればデザイナーとしての軸を形成してきたあまりにも濃い10年間だった。

※この10年はひとつの記事では語り尽くせないほど涙あり、笑いあり(闇もあり)お仕事内容から退職までの経緯まで膨大な長さになること必須なので、詳細はまた別の枠で10年間を纏めて言語化しよう、と思う次第。

デザイン業界の仕事を選んだ理由

10年働いたアパレルブランドを辞める決断をしたその直後、2社目となるプロダクトデザインの会社に、企画職・デザイナー・クリエイティブディレクターとして転職を決めて5年間勤務した後、独立して現在に至る。

アパレルデザインに始まり、プロダクトデザインを経て、
現在はそれまでの経験を活かして幅広く、印刷物やWeb、服飾、プロダクト商品、広告、空間、写真などを含めカテゴリにとらわれず、ビジュアルデザインを主軸にデザインという名の付くもので実現できることは何でも面白がって柔軟にやっていけるようになった。

その時々でやりたいことを本能や感覚で選んでやってきたわたしは、
誰かのために創るデザインの仕事が、純粋にすきなのだ。

すきだから、仕事にしている。

ずっとこの仕事を続けて生きていくのかは自分でも分からないけれど、その時々でやりたいことを選択しながら生きていく予感はしている。
お仕事以外に自身のパーソナルワークも並行することで、自己満足感もバランス良く得られている。

わたしは自分との小さな約束をいつもしていて、叶えるようにしている。
常に実現者でいたいのだ。何をする時だって、いつだって本気でありたい。

お仕事を選ぶ理由はひとつではなくて、
楽しいことか、やってみたいか、ワクワクするか、おもしろそうか、挑戦や成長はできるか、直感と感覚など、複数の理由が重なることに加えて、額面の納得度で決めるようにしている。

2021年春、写真家 清川英恵さんに撮影していただいたお気に入りの1枚。

現在はとても恵まれていて、素晴らしい人、仲間、環境のもとでお仕事ができている。プロジェクトにアサインいただくことも、チームでお仕事することも、じっくりお客様と対話して共創するお仕事も、個人でお受けするお仕事も、自分を生きるタイプのわたしを受け入れ、一緒に共創してくださっている方々には本当に、日々感謝してもしきれない。

いつも関わってくださること、お声掛けいただけること、本当にありがとうございます。

おわりに

独立して3年、あの時開業した選択は間違いじゃなかった!と日々確かめながら、常に自分をアップデートしている感覚がある。

2021年夏、M's Photographerさんに撮影していただいだ、金沢出張での1枚。(数年振りの浴衣)


これまでずっと"なりたい自分像"を実現するために夢を叶えてきたタイプなので、いまは道の途中。次の"なりたい自分像"にはまだまだ到達していない。

デザイナーとしてプレイヤーであることを軸に、アートディレクター、クリエイティブディレクター、デザインマネージャーの領域でやりたいことが尽きないし、デザインに関わる人生の中で絶対にやってみたいお仕事が複数あるので、実現に向かって虎視淡々とチャンスを窺いながら、日々動いている。

点と点だった幾つもの経験がある時から線になり、スピード感に乗ってそれまでの伏線を回収しながら叶っていく、という感覚を何度もしてきている。

現時点ではこの生き方が、自分らしく在りながらご機嫌ハッピーでいられて
自身にとって楽しく、幸せでいられるのだ。

本能のままに自身の感覚と閃きを信じて、
自分に正直に直感で楽しく生きることが、わたしには合っている。

デザインのお仕事を通じて
楽しみや感動の体験を、もっと伝えたい。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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ユキックス @MILKIT_DESIGN


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