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月にあなたの居場所はあるか――村上春樹とスガシカオ

   1 月に戻りなさい、君


『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)を読み終えた。三回目の読了だ。村上春樹の作品には、どこか喪失感を和らげてくれる力がある。もちろん、読むことによって僕の現実世界における問題に、抜本的な解決法が示されるわけではないし、あるいは無暗に昂揚感を与えてくれるわけでもない。喪失に向き合う際の姿勢や態度といったものだ。村上春樹の小説が教えてくれるものは。
 暗闇に足を取られないよう、気を付けながら、でもときに全くどうしようもなく自分の無力さを突きつけられる出来事に巻き込まれながら、主人公はステップを踏みつづける。「踊るんだよ。それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに」そういった言葉に励まされながら、主人公は孤独と喪失を回復しようと、ダンス・ステップを踏みつづける。ダンス・ステップを踏む、というのは、混乱した物事を見極め、出来事の流れをよく観察し、自分の世界を回復させるために、(社会的な流れとは無関係に)みずからの役割を担うことだ。心のふるえを呼び戻すこと。喪失を繰り返した果てに、無感覚に陥るほど疲弊したからだに、欲望の芽を植えつけること。簡単に言えば、『ダンス・ダンス・ダンス』は、そういった物語になるだろう。

 この物語の本筋が始まる前に、主人公の特徴(あるいは傾向)を示すエピソードとして、電話局に勤める女の子とのエピソードがある。女の子は主人公のことを「月世界人」みたいだという。彼女は主人公のことを気遣い、ベッドのなかで説明する。

「私はあなたとふたりでこうしているのって大好きなんだけど、毎日朝から晩までずっと一緒にいたいとは思えないのよ。どういうわけか。(……)あなたといると気づまりだとかそういうんじゃないのよ。ただ一緒にいるとね、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるときみたいに」(上、p21)
「月に戻りなさい、君」と彼女はその月を指し示して言う。(上、p23)

 彼女はここでなにを言おうとしているのだろうか? 主人公が「地上のどこにもつなぎ留められていない」感じが、彼女に伝わっていたのだろうか。やがて彼女は主人公のもとを去ってしまう。彼女からの手紙には、宇宙飛行士が宇宙服を着て月面を歩いている写真がプリントされている。「地球人と結婚することになる」という文字が添えられている。
『地上のどこにもつなぎとめられていない』感覚。その比喩として「月」が取り出されている。重力がなく、空気もなく、したがって自由もない、月という磁場。


   2 黄金の月(月とナイフ)

 村上春樹がデビュー作から聴いているという日本人アーティストのひとりにスガシカオがいる。彼もまた、「月」に関する曲を歌っている。最も有名なのは、デビューアルバム『Clover』(1997)収録の「黄金の月」だろう。そこでは、月はなにを象徴しているのだろうか。≪ぼくの情熱はいまや、流したはずの涙より冷たくなってしまった……≫から始まる「黄金の月」は、望んでいたものがうまくいかず、清純だったはずのものが不純になってしまう過程を描いている。

きみの願いとぼくのウソをあわせて 六月の夜 永遠を誓うキスをしよう そして夜空に黄金の月をえがこう ぼくにできるだけの光をあつめて 光をあつめて

 「きみの願い」と「ぼくのウソ」をあわせて、「夜空に黄金の月をえがく」。ここでは「黄金の月」とは、現実を度外視した「(きみとぼくの)理想的な構築物」というふうにとれる。なぜ現実を度外視しているように見えるかといえば、「きみの願い」に対して置かれるのが、「ぼくのウソ」であるからだ。「ぼく」はこのとき正直ではいない。もっとも、「きみとぼく」が一緒にいるためには、お互いに相手のことを思いやり、ある程度の配慮をもってエゴを控えることは必要である。なにもかもを自分の好きなようにしていては、だれかと一緒に暮らすことなどできない。また、その相手を立てるために、自分を抑えて我慢すること、それ自体が親密さの結晶となっていくのかもしれない。ただそういう立場から見ても、「願い」に対して「ウソ」を置くのは、いささかネガティブすぎる。「ぼく」には結局、この先が見えていて、うまくいかないことを知りながら、理想的な生活に「願い」をかける彼女に身を寄せているようにさえ見える。それは『地球の磁場』であるのかもしれない。理想的構築物である「黄金の月」をえがくことに対して、「ぼく」が思いきり飛翔することができない、足枷のような「現実の重み」であるのかもしれない。その悲痛な現実的な感覚は、「生きていくしかない」というふうに結実するように考えられる。「黄金の月」は最後、歌詞を省略する形で終わる。

ぼくの未来にひかりなどなくても 誰かがぼくのことをどこかで笑っていても きみの明日がみにくくゆがんでも ぼくらが二度と純粋を手に入れられなくても 夜空にひかる黄金の月などなくても

「もし~ならば」であるif節の連なりに応答する主節はなんであるのか。おそらくそれは、ネガティブな響きをもった「生きていこう」なのではないか。「月」に行くことのできなかったぼくに、ひかりはもう射さないかもしれない。もうあの時みたいに笑いあう瞬間は一生現れないかもしれない。ここにはそれらの残滓を身にまとう、生きていくことだけが残された「ぼく」だけが残っている。
 同じく『Clover』に収録されている曲に「月とナイフ」がある。これも恋愛の失敗を歌い上げる名曲であるが、ここでは「月(あるいはナイフ)」は、身体の外部にあるもの、それによって心情の揺れうごきを強調する作用をもっている。


  3 おれ、やっぱ月に帰るわ

 スガシカオの10枚目のアルバム『THE LAST』(2016)の歌詞カードをめくると、そこには村上春樹によるライナーノーツが載せられている。村上春樹はこのアルバムのなかで一番好きなのは「おれ、やっぱ月に帰るわ」だと語っている。

僕が今回のアルバムの中でいちばん好きなトラックは『おれ、やっぱ月に帰るわ』だ。この、人をぽんと突き放したようなノン・ヴィブラートな喪失感、そこに含まれたオフ・ビートなユーモアの感覚、そしてとくに出口を求めてもいない――求めようもないことを既に賢く悟っている――いくつかのひっそりとした、しかし真摯な希望、こういう世界を(僕らを実際にぐるりと取り囲んでいるこの世界を)、独自の言葉でありのままにすっと表現できる歌手が同時代に存在するというのは、僕らにとってなんといっても慶賀すべきことであると思う。いいですね。

 出口。かつて村上春樹は、出口に向かって書いていた作家のひとりだった。

 物事には必ず入口と出口がなくてはならない。(1973年のピンボール、p15)

 だが、『ダンス・ダンス・ダンス』はそうではない。奇妙なホテルを舞台にした物語のなかで、主人公は入口から入って出口から出ていくことをやめ、そこにとどまることを求める。「とどまる」ことは、月の磁場ではなく、現実の地球の磁場にそって、欲望の回路をたぐり寄せることにつながる。そうしないことには、疲弊した心とからだのまま、真っ暗でうつろな闇のなかから、価値や意味を探し出すことなど不可能であるからだ。
 一方「おれ、やっぱ月に帰るわ」はその名の通り、月に帰ろうとする歌だ。電話局のガールフレンドが「月に戻りなさい、君」と指し示した月へ。この曲のなかで登場する月は、「黄金の月」とはまったく意味合いが異なっている。それは「きみとぼく」の理想的な構築物などではない。地上の磁場につなぎ留められなくなった、月世界人のうたなのである。
 歌いだしは「君に貸した3DS返さなくてもいいよ」、そのあとも生活の臭いを感じさせながらも、結ばれているはずの人間関係から一歩引いたような、リリックがつづく。バーベキューで焦がしちゃったことを謝ったり、春休みに京都に行けなかったことを残念がったり、という歌詞だ。電話局の彼女が言ったように「空気が薄くなっている」のだ。主人公は生活の重力から解放されてしまいそうになるのを、ぐっと堪えていた。だが、それはサビにおいて一気に突き放されるように、彼の存在は現実から解き放たれてしまう。かつていたであろうはずの、月へ向かって。

おれ、やっぱ明日 月に帰るわ ビルの屋上から おれ、なんかちょっと 居場所もないし いろいろごめんね

おれ、やっぱ明日 月に帰るわ バイトもないし おれ、なんか空気 うまく吸えないわ 不器用すぎて

「月に戻りなさい、君」と彼女は言った。そう言われてしまう『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公と、この曲の主人公はやっぱりなんか似ている。


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