読書記録013「山ん中の獅見朋成雄」(舞城王太郎)
舞城王太郎の作品を読むのは、「スクールアタックシンドローム』以来、約一年ぶりだった。定期的に摂りたくなる癖の強い料理のような、そんな魅力を舞城作品は持っている。
獅見朋成雄(しみともなるお)という高校生が主人公なのだが、彼は背中に先祖由来の獣のタテガミを生やしていて、それをコンプレックスにしている。
舞城の魅力の最たるものはその文体にある。(本作では、それはもちろん音の描出として表現される。)舞台設定や人物造形はそれを引き立たせるアクセントとして配置される。とはいえ、薬味程度に収まらない特異性を獲得しているのも事実だ。
基本的には、獅見朋成雄による成長物語として読むことができる。アイデンティティを得るための通過儀礼としては、もちろんタテガミを剃ることが焦点になっている。このタテガミが獅見朋成雄の逃れられない呪縛のように作用しているからだ。それは館において行なわれる。獅見朋成雄を館に導くのは馬である。
館は、究極の「食」を突き詰めるところに生まれた施設だ。究極の「食」を追求すると、人をお盆に見立てたり、人の肉を食らうというところまで行き着く。館において、死んだ人の肉を調理して食らうという状況は、獅見朋成雄の祖父が経験した戦争での状況と重なる。人が人でなくなる位相、日常から遊離した非日常の空間。戦争が政治的な強制力によってもたらされるとしたら、食の追求は趣味の延長によってもたらされる。いまや人が人でなくなる位相は、趣味の延長においてほかない。人はお上からの命令を待つことなく、死すべき人間/生きるべき人間を識別する。
館で起こることはすべて獅見朋成雄の成長に関わっている。タテガミを剃ることも館において行なわれる。館を支配している主人は成雄を俗世に帰らぬよう引き止めようとするが、館から逃がしてくれるのはまたしても馬である。ここで馬は、両義的な意味を与えられている。ひとつは刻印として。遺伝的に成雄に生えているタテガミは、逃れがたい血のつながりを表している。それは成雄の自己形成と大いに結びついている。もうひとつは、日常を遊離させ、体験へと導く使者として。馬が成雄を館に導き、館から立ち去らせる。タテガミを剃り落とし、馬を後にして森のなかを逃げていく成雄は、過去を超克し、未来のさなかに駆け抜けていく。
以上のように構成/場面展開の面でも、魅力的で面白い配置がなされている。しかしなんといっても本作での力点は、音の描出にかかっている。
しゅりんこき しゅりんこき(硯の上で墨を磨る音)
クワサササ クワサササ(落ち葉を踏む音)
サバギシリン サバギシリン(木の枝が風を受ける音)
しぞりりりりんに しぞりりりりんに(背中の毛を剃られる音)
そういった独特な音の描出は、思春期で絶えず揺れ動く、成雄自身のバイオリズムと不可分に関わっている。調子が良いときと調子が悪いときでは、音の聞こえ方が異なるものだ。もちろん、人間関係や馬が導く館での経験も、成雄の自己に影響を与える大きな要素だが、それらは外面から作用する。音そのものを取り出すことによって、成雄の内面はよりダイレクトに表現されることになる。この小説はスラップスティックな展開と、主人公の内面を垂直的に描こうと試みる二面から成る舞城王太郎的な舞城王太郎小説である。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?