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国境

 国境を越える者がいる、未開の地を拓く者がいる、名も知らない街を見る者がいる、そして母国語のない土地で営む者がいる。
 なによりそれに憧れる者たちがいる。
 きみよ、ここから逃れたいと願う気持ちこそがきみだ。
 きみはおそれをおそれたくない。
 世界中の大地が、大河が、山脈が、大海が、きみに風を運び続けている。
 きみは、巻き込まれている。
 きみは、粉砕されている。
 きみは、空に消えゆく飛行機雲だ。
 だれにも告げず、だれにも気づかれず、だれのことも考えないで、さあいつだって夜だ、出発しよう、汽笛が聞こえる。
 どこかで聞いたことのある、懐かしい汽笛に導かれて。
 さあ、出発だ。

   *

 国境ときいて真っ先に思い浮かぶのは、ひとつしかない。漫画ワンピースである。麦わら一味というのは海賊であり、グランドラインと呼ばれる国境を侵犯し、略奪と服従を要請する。

 現在ワンピースは日本において確固たる人気を誇っている。若者はワンピース教育を経て、「暴力は正義である」という等式を疑いようのない観念として把握する。かれらにとって暴力は正義であり、どんな矛盾も克服しうる美しい行動様式なのである。暴力と暴力がぶつかり合うことでしか友情は発生しないし、もちろん勝利することもない。はじめに暴力ありき、というわけだ。
 コンビニの前にたむろする若者は必ず毎週ジャンプを愛読している。
 ワンピースとスラムダンクで育った彼ら、上目づかいにこちらを睨む彼らに少しでも隙を見せたら最後、腹を蹴られ、背中を小突かれ、大腿の辺りを鋭く蹴りつけられ、金銭を強奪される。そのあとで肩を組まれ、「なあ、俺たちって友だちだよな。今度また金持ってこいよ、ババアの金だってなんだってとにかく持ってこいよ。約束だからな。友だちの約束なんだから絶対破ったりはしないよなあ~~」と友情パワーを見せつけられる羽目になる。ゆすりの常套手段を彼らはみんな友情努力勝利コミックから学んだ。

 健全たる青少年たち、輝かしい未来に羽ばたいていく子供たちが、目を輝かせて他人を殴りつけ、金品を強奪していく。そのような現状において政府は、文科省はなにをやっているのであろうか?
 ワンピース自警団の存在が怖くて、街を歩けるどころか、夜も眠れません。彼らが金属バットも引き摺って、その足音がとまり、ベランダの窓が割られる音が、部屋中に響くのが今日なのではないか、もうすぐなのではないか、そればかりに頭がいって生活もおろそかにする始末です。こないだなどは風呂の蛇口を開けっぱなしで、映画館に行ってしまったもので、下階の住民からは怒られるわ、うちの床中も水浸しで、飼っていた柴犬は溺れてしまうわで、大変でした。こういった災害がとある漫画によって引き起こされていると思うだけで気が狂いそうです。暴力はこの世から根絶されるべきではないんですか! 正義はどこにいったのです、紛い物でない正真正銘の正義は!

   ◇

 以上の意見がワンピースを敵視する一団の主だった主張と言えるだろう。なぜそんなに穿った見方しかできないのだろう、ほんとに情けない連中だ。
 私はもちろんワンピースに愛情と信頼を寄せている。週に一度は友人と今週の展開について熱い議論を交わし、肉を食い、酒を飲む。ワンピースがなければいまの私は存在していない、といっても過言ではない。人生に必要なことはすべてワンピースが教えてくれた。私にしてみれば、ワンピースを悪く言う者ほど、地獄に落ちればいいと思っている。ワンピースを否定するなど、およそ常人では考えられないことだ。彼らは性根が腐っているのだ。性根が腐りきって、たぶん自分の言ってることが分かっていないのだ。あるいは本当はワンピースに溺愛しているのに、それを自分のものにしておきたいという所有欲に敗北したあげく、あんな馬鹿な振る舞いをしているのだろう。
 ワンピースの仲間たちは、国境を飽くなき好奇心によって乗り越え、少年のような熱き血潮を滾らせ、未知なる仲間との邂逅に思いを馳せる。そして普段いさかいを仲間内で起こしていても、それは愛情に裏打ちされたスキンシップの範疇にほかならない。
 陰険で市民たちに圧政を強いる暴君たちを目の前にしてワンピースの仲間たちは結束する。この仲間を束ねる強い力、“絆”と呼ぶに値するものが、読む者の心を揺さぶり、熱い涙を流させる。“絆”という言葉に対して、過敏に反応して嘲りの笑みを浮かべる連中が世の中には存在する。私はそんな連中を見るたびに、心底悲しい気持ちになる。“絆”に支えられているのに、それを実感できてない感受性のなさに、私の慈愛の限界を知らされる思いになる。私だって出会う前はこの世に“絆”なんて存在しないと思っていました。けどあのコミックに出会ってから、私のなにもかもが塗り替えられた。私を成長させてくれたワンピースに心からの感謝を。そして不遇な連中にもワンピースの加護がありますよう、ここに慈愛のキスを捧げたい。

 ワンピースは素晴らしい漫画だ。セルバンテスでさえこれほど読む者を圧倒させ、胸踊らせる冒険譚を描くことができたであろうか。

   *

私は模造されたものであり、リッピングされたCDである。大量生産された挙句、店先でたたき売りされ、夕方のテレビに放映されたドラマのテーマソングとなったことで主婦層に爆発的な人気を得た韓国アイドルグループの曲を内部に書き込まれた一枚のCDだ。そしてそのCDはおもての余白にそのアイドルの名称をカタカナで書きこまれた状態で、ラジカセの中に収納され、主婦が万年筆練習帳に退屈し、次のドラマまでも時間がある午下がりまで、じっと待機しているのである。主婦が万年筆練習帳に万年筆を走らせているあいだ、居間はじつに静かだ。カリカリというその音がわたしの存在を忘れさせてくれる。

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