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「エモーショナルきりん大全」雑感、幻視者としての悔悟

『エモーショナルきりん大全』(上篠 翔、書肆侃侃房 、2021)

フリッツ・ラングを引くまでもなく、ましてや西田幾多郎を引くまでもなく、あまつさえヘラクレイトスを引くまでもないし、もちろんパスカル・キニャールを引くまでもない。別にだれの言葉も引用も必要がない。なぜならここには彼の文字があるのだから。上篠翔の文章がある。だからそれについて語ろう。それ以外のすべては必要ない。少なくとも今は。


なんもないとこから猫がやってきてなんもいえないところへいった(p52)

デヴィッド・リンチみの深い一首である。普通「なんもないとこ」から猫はやってこないし、「なんもいえないところ」などない。だがそもそも私たちが見ている世界を「普通」と処理するのは、本来の意味で世界と向き合っていないことの裏返しである。世界を直視すれば目をやられてしまう。太陽と一緒だ。下敷きを掲げなければならない。あるいは3Dメガネを。実際の話として猫は「なんもないとこ」から出現したし「なんもいえないところ」へ消えたのだ。「なんもないとこ」とは存在が存在しない場所であり、「なんもいえないとこ」とは言語が機能しない場所である。日常をただ漫然と生きる私たちがつい見逃している場所と場所を猫は往来する。私たちが見かける猫は、その合間の猫であり、それまでなにをし、これからどこに行くのか見当もつかず、私たちはただ「あっ猫だ〜かわいい猫だなあ」などと呟くのみである。


おいキティ、お前の白は幻のイレブンカラーだ十人十色の(p67)

言うまでもないことだが、キティの白は持ち前の白さであり、それ以上でも以下でもない。だが、この歌は強くキティに対して呼びかける。否、それ以上に、キティに接する人たちに対して語りかける。キティは実は霊媒であり、キティを通してあなたは自分の本来の色を目にしているのですよ、と。「十人十色」という語に対して、「イレブンカラー」と出るのが気持ちいい。十人には十色と言われ、なんとなくそんな気がしていたものの、どこか煮え切らない気持ちを抱えていたところに、イレブンカラー、まだ色があるんですよ、あなたの色は振り当てられたものだけではありませんよ、と未来への広がりを感じさせてくれる優しさに満ちている。そうであるとすれば、キティに対して「おい」と呼びかけるのも茶目っ気であると了解できるだろう。茶目っ気と優しさ、それ以上に尊いものがこの世にはあるだろうか?


アキネイターに朝の光を答えさせ「実在する?」で迷った(p120)

アキネイターを起動させる人たちには、様々な企みを催している者も多く存在する。1コマしか出てこないキャラ、名前がついてるのかも怪しいモブキャラ、アマチュア演劇界ではそこそこ名の通った駆け出しの俳優……。そんな企みが可愛く思えてしまうほど、「朝の光」を答えに設定するのはひねくれている。「実在するか?」と訊いてくるあたり、アキネイターも朝の光を浴びたことがないのではなかろうか?そしてアキネイターとやりとりを交わす主体も、実は朝の光が何だかよくわかっておらず答えに設定した可能性が高い。「朝の光」を知らない者同士が、「朝の光とは何か」について語り合う。それはある種悲劇じみており、終末的な光景ですらあるだろう。だが実際はベケットの「勝負の終わり」にあるように、のほほんとした会話劇であるのかもしれない。


幻視者とは、幻視する者のことであり、幻視とはあるはずのないものをそこに見ることである。ひととはちがうものを見る。ひととは異なる世界を見る。ひとがリンゴが赤いと言うとき、彼は陽に灼けた水泳帽を見ている。ひとが月が綺麗というとき、彼は「綺麗な月」に潜んでいる「霊気」に包まれている。幻視者は、時代によって予言する者でもあれば、錯乱する者でもある。上篠翔の短歌における一種のモチベーションは「幻視者であることに対する後悔」である。


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