死神遣いの事件帖/感想

階段を上り、会場に足を踏み入れる。
薄暗い空間に、映像で観るよりずっと、大きく見えるセット。
風の吹き抜けるようなSEが流れていて、一瞬で、空気が変わった気がした。

あぁ、来たのだ。

と思った。

7月24日

じっとりと汗が張り付いて気持ちが悪いけれど、憂鬱な雲さえ晴らしてしまいそうなくらい、気分は高揚していた。
例年より長く続く梅雨にぐったりとしそうになるけれど、この時期に長く続く雨を卯の花腐しと呼ぶらしい。
正確には梅雨の走りのことらしいが、その名前がなんだか綺麗な気がして、それからはそんなに梅雨が嫌いじゃない。
(とはいえ例年でいう梅雨明けの時期をとうに通り越して、それでも尚降り続いているからこまっているのだけれど)

そんな卯の花雲のもうじき晴れるという頃に、舞台を観に行った。
なんと4ヶ月半ぶりのことである。

多くのことが思うように立ち行かない情勢の中、バタバタとあらゆる舞台が中止となって、思えば最後に観劇をしたのが今年の3/1、浪漫活劇譚『艶漢』第四夜。
月に8日間の休日はほぼ全て、舞台観劇やアニメ、声優イベントに駆け回ってきたわたしにとって、何もかもが停滞した4ヶ月半というのは本当に大きなものだった。

こんな世の中なので、「観劇して来ました!」なんてことを書いてもいいものか悩んだのだけれど、舞台が無事千秋楽を迎え、その後も何事もなければ公開しようと決め、書き始めることとする。
(そんなわけでこの文章は7/25に書いている)

東映ムビ×ステ 舞台『死神遣いの事件帖-鎮魂侠曲-』

喜三郎役の櫻井圭登さんのファンで、興味を持った初のムビ×ステ。
少し前に映画を観に行って、人情み溢れるお話に惹かれていた。
櫻井さんは舞台からの出演ということで、この世界観の中で、生でお芝居をするのが本当に楽しみだった。

映画はカメラのアングルや、CGを用いながら、けれど案外アナログ的手法で描かれていて、映画、舞台の両展開ならではの、ミックスしたような演出の面白さを感じていた。

舞台ではより殺陣が多くなるだろうとは思っていたけれど、ダンスシーンがあったり、殺陣も音楽に合わせて踊るようにつけられていたりと、エンターテイメント性に長けていて、純粋に面白い。
それぞれの悔恨や、思いが錯綜して、自らの祈りのために、過ちを生んでしまう。
侠客の情に溢れた強さや圧倒的な正義の前に、「死神」サイドの方が人間らしいような気さえした。

大切な人を助けたい。
物語の幕が降りても戦い続けていく、というラストはなんとも格好良い。
個人的には、これはもしや続編が…なんて思ったりもした。
まだまだ死神と死神遣いの関係を、深掘りして欲しいな、と思える映画、舞台だった。

そしてまあ、2時間、物語に浸りながらももちろん、視点は常に「推し」に置いて来たわけで。
喜三郎と櫻井圭登さんのこと。

いやもうまず、

生きてる。動いてる。生でお芝居をされてる。

それが全てですらある。
文章に起こすのが好きだから、なるべく頭が良さそうに書いてみたくなるのだが、所詮はオタク。
紐解いていくといろんな感情の存在が確認できるだけで、実際脳内にあるのは「好きー!尊いー!」ぐらいなもんである。
いやもうパンフレットとブロマイドだけで、「なんだ?美少女なのか?」と偏差値が2になってしまっていたのだけれど、実際舞台に立つ姿を観ると、全ての動きが綺麗で、格好良くて、なんだかそういう思考停止したような考えすらも吹っ飛んでしまうほど、美しかった。
とはいえドスの効いた声や殺陣に目を奪われつつ、時折双眼鏡を覗いてみるとお顔があまりに美少女なので、その度にバグってしまっていたが。
身体作り、役作りと、いつも完璧に仕上げてくださっている、並々ならぬ努力を感じられるのも、好きなところの一つだ。

好きなキャラクターを演じていたのをきっかけに知り、あまりにその姿が本物で、この人が他の役を生きるのを観てみたいと思った。
そうしていくつか違う舞台を観にいくうちに、「演じる」というより「生きている」と感じさせる気迫や、ダンス、殺陣のキレに惹かれて、いつのまにかどっぷり落ちてしまった身としては、もうどストライクに最高の役柄だった。

喜三郎。
お菊の弟。
兄の一八を失い、主人公の新之助を恨んでいる。
侠客になるも、死神に唆され利用されてしまう、兄への強い想いや、浅はかさには幼く純粋な印象を持った。

物語を通して、トリガーになるような役柄だったため、登場シーンは多い方だったが、そのほとんどが殺陣で台詞は少ない。
その分、あまり多くは語られていないのだけれど、喜三郎の思いがしっかりとそこに「見える」。
櫻井さんがパンフレットで語られていた思いとも重なるが、あまり過去の語られない、今そこにある思いが全てである役柄なのに、彼のそこに至るまでがなんとなく想像できるのだ。

未熟で、復讐に意義を押し付けていないと壊れてしまいそうな不安定さを感じて、それが「お芝居」とかではなく、ただそこに、迷って、惑って、人を斬るしかない幼い少年が「居る」だけ。

喜三郎の剣筋には迷いがない。
迷いのない「殺意」。

佇まいが、表情が、言動が、まだ子供っぽく、剣筋の真っ直ぐさがまた、少年らしい純粋さに感じた。
「お前のせいだ」
いいも悪いもないんだよね。
ただお兄さんが大好きだっただけ。
弱さ故に死神に唆されてしまったのだろうとか、大好きな兄のため、それが正義だから、それしかないから強いのだろうとか、たくさんの想像をした。
そこには悪意がない。
喜三郎の純粋さは、鬼八一家へ寝返った後のあっけらかんとした懐っこさからも窺える。
ラストの笑顔の無邪気さがずっと網膜に焼き付いている。
なんだ、喜三郎、めちゃめちゃにかわいいじゃないか。
もちろん彼の中にある真意はわからないけど、その想像できる余白が好きだ。

こんな風に想像を膨らませながら、少ない台詞の中でも、彼の抱えるものや性質が垣間見えることに、お芝居って魔法みたいだなんて純粋に感動して、そこに魂がきちんと乗っているのは、役者が役の内面に問いかけて、感じて、演じてくださってるからなのかなぁなんて個人的には思う。
「演じる」という経験をしたことがないから、その辺はさっぱりなのだけど、表面上を作っただけではない、きちんと内面が見えるところが櫻井さんの大好きなところだなぁとあらためて感じた。

いつも思うことなのだが、大抵お芝居を見ている時は、それが櫻井さんだと忘れてしまってる。
ふとした瞬間に、あぁ、この人は、この人が櫻井圭登さんだった、とふと気がついたりする。
誰か一人の役者に固執して舞台を観始めて日が浅いからこそ、そのアングルの違い一つに感動したりする。

久しぶりに板の上に立つ推しを観て、この数ヶ月間は配信でのほのぼのとした姿を拝見して癒されていたから、もうかっこいいがカンストしてしまって、感情を書き記さなければ、一つでも取りこぼしたなら、どうにかなってしまいそうなのだ。
舞台っていいなぁと純粋に感じられるのは、この情勢の生んだたった一つの宝物かもしれない。
こんな素敵な場所がどうかずっとこの先も守られますよう、何かできないかと考えながら、今はただ、少しでも状況が好転するよう行動しつつ、ブロマイドをポチポチするしかないんである。
オタクたち、大切なものを、大切な場所を守るため、好きを沢山買おうな。
なーんて、欲望に言い訳をして。

いつの日か、また当たり前に好きを叫べる日がくることを祈りながら、今はただ、舞台のくれた夢の中で、しめやかに。

/卯の花雲の晴れる頃に

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