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ネバーランドの心臓

仕事の連絡を待っていた。
2時間経とうと不明瞭な返信に、流石にもういいだろうと明治神宮前駅へ向かう。ちょっと食べたいものがあった。…のだけど。

店の前まで来て立ち止まる。長蛇の列。12月23日金曜日。明日がクリスマスイブとして、今日は今日で皆浮き出し立っている。

なんだ、こっちは疲れたからご飯ぐらいは好きに食べようと、ただそれだけだったのに。
仕方ないので駅へと引き換えす。クリスマスモード一色の中、わざわざ並んでまで食事をするほどハッピーじゃなかった。
途中、鏡に反射した自分の顔が、マスクをしていてもわかるくらい赤くなっていた。

虚な心地なのは寝不足か、心に靄がかかっているのか、よくわからないままに下北沢で下車をして、ぼんやりと本屋へ向かう。
少し前に駅前にできた大きなTSUTAYA。こういう、「自分がよくわからないとき」は本の背を眺めながら歩いていると落ち着くし、ここはバラエティ豊かだ。
その月によって洋書やアートブックや絵本など、さまざまな特設コーナーが組まれたり、アート展示や、雑貨やアクセサリーも置いてあったりと、自ら進んで手に取らない本や物も目に入りやすいようになっている。下北沢に頻繁に赴くようになってイメージは変わったけれど、カルチャーの街らしいな、と思う。(サブカル、アングラ好きとしては、昨今の下北沢を決して「サブカルの街」とは称したくないところだ)

入口階、1Fと思しきところが2Fになっているつくりで、クリスマス直前ということもあり、ギフトが置かれていたりと、こんなところからも年末感を実感する。
特に何か手に取るでもなく2Fを一周すると3Fへ向かった。
本当は河出書房さんのスピンを買いにきた。ネットで注文した分は届いていて、読みたかった短編は既に読み終えた後だけれど、やはり書店で手に取る体験が欲しくなる。
結局目的のものは見つけられなくて、代わりにクリスマスにプレゼントしたい本コーナーに行き着いた。
上部はこの時期らしいラインナップなのに対し、中間あたりから下部は「心が傷んでる人向け」みたいな本ばかりが並んでる。

…いや現代人疲れすぎでは?プレゼントしたい本として置かれるには、なんとも孤独である。
もし、もしも、そんな本を誰かに贈りたいと思う時があるとしたら、静かに寄り添い、或いは語らい、落ち着いたらマグロでも食べに行こうじゃないか。セロトニン、マジで涙出るから。
とはいえわたしは泣きながら本屋に辿り着いた人間なので、自分宛に贈るにはぴったりなのだった。

この頃は始発で家を出て終電で家に帰るような、そんな生活をしている。健康じゃないし、それは肉体的にも精神的にも言える。
けれど珍しく読書はできた。
文字が全く滑らず、どころか、普段より早いペースで読める。とにかく言葉の律動が心地よかった。
バイトの時間を気にしつつ「心が傷んだ人向け」コーナーから何冊も本を手に取り、よく吟味した後、5冊を購入した。


エミール・シオランの言葉にこんなのがある。

「批評は不条理だ。本を読むのは他者を理解するためではなく、自分自身を理解するためなのだから」
〈エミール・シオラン『呪詛と告白』より〉


思えば敬愛する大好きな小説家、中村文則さん。
彼の小説に対し、ほとんど全てに共通して「沼底を張っているようで重く苦しいのに、自分と重なる温度が酷く愛おしい」と感じている。そしてそれがとても心地よい。自分に近しい温度に、終わっていながら安心する。心が振れることで、一人ではなくなる。本は唯一の理解者だった。
読書は孤独の隙に棲む。でもそれは、決して寂しいことじゃない。
内省である。そして対話だ。自分自身との対話なのだ。
わたしたちは本をもって自身を知り、”生“の手触りを確かめる。知恵や知識を得る。もちろん、ただ物語を喰み、砕けた時間を過ごすのも、生きる知恵と言える。

そう考えると、空虚でたまらなくなる夜に、わざわざ本を買いに足を伸ばしてしまうのに納得がいく。
その空虚の中身だが(いや空虚の中身というのも変な話だけれど、多分ドーナツの穴にもきっと、碌でもない「空虚」が詰まってる。…多分)またもや仕事のことだった。
11月末で事務所を辞め、12月から尊敬しているスタイリストさんの下でお世話になっている。仕事を辞めて12月いっぱいは休むつもりで、最後の気力を振り絞って働いていた11月末、「12月君空いてるの?じゃあ来たら」みたいな感じでトントン拍子に話がすすみ、気がつけば想像もしていなかった場所にいる。

12月の前半は、撮影所の大きなスタジオを使っての撮影が中心となった。
衣装を搬入しながら、無表情にいくつも立ち並ぶ、揃いの大きな建物を恐いと思った。10畳程のセットがいくつも組めてしまうほどで、高くそびえる壁が不気味なのだ。外から見ると巨大な火葬場か、収容所のような何かを想起させた。
我々が使うスタジオはあろうことか一番奥に位置していて、この沈黙した建物の間を歩かねばならなかった。
壁の向こうには無数の死体が瓦礫のように折り重なって、わたしの胸の奥、たった今消え入りそうな小さな炎が通り過ぎるのを、じっと見つめている。そう思うとのしかかる荷物の重さより、心細さの方が目立った。

本当は、新しい生活への希望だったり、そんな転機のことを文にしたためていた。でも書き始めてから20日以上が経過し、次第に心は澱んでいった。
そして今朝方何かしら限界が訪れて、金切り声に近い号哭のあと、冒頭を除いたそのほとんどを削除した。

その冒頭というのが以下である。


積極的に生きることもなく、かといって死ぬこともなく。わたしがわたしとして生き、わたしのままで死ぬために、多大な言い訳が必要だっただけではないか、と思う。
イチョウが揺れた。もう12月だというのに今年のそれはまだ青くて、空気は冬らしさを帯びていながら、寒さは芯を冷やすには足りない。秋はすっかり消え失せたのに、どこか躊躇うようにもたついてもどかしい。

このシュプレヒコールはきっと、一生どこにも届かない。


この書き出しはそれなりに気に入っている。
…流石にもう、イチョウは紅葉したんじゃなかろうか。もう普通に寒いし。そういえば12月の頭くらいまでは冬にしては暖かった。
このあとには新しいスタートを切ったこと、いつか丸の内で眺めていた街路樹を飾るイルミネーションと、今年見上げた表参道の街路樹を飾るイルミネーションとの対比。そんな、変わらず滲んで見えた小さな電球のこと。
それから小さな希望のこと。

けれど、前向きに踏み締めたつもりがすぐに眼は曇った。
うまく回っている、と思う一方で置いてけぼりになってる感じがした。環境が変わっても、もうわたしの心はついていけなかった。そして次第に疲労に飲まれた。

さあね、もう何にもなりたかないよ。だけど、何かになるしか大人の仮面を被る方法がないのだから仕方ない。
いつか、いつかね、やっぱりこの場所に背を向けて、また何かを探す日も来るかもしれない。でも、多分今はまだここにいたい。

どこへ行きたいか、何をなせるのか。みたいなのはある程度定まった気がする。というか消去法的にあれもこれも厭々と遠ざけたに過ぎないな。いや、多分そんなのも見栄だ。
正直に言えば働きたくない。働きたくない、というのもちょっと違う。人間が生命を維持するために必要なこと以外の活動をしたくない。動物的に間違っているから。
簡単に言えば「資本主義」への嫌悪。

慢心していたのだと思う。
しょうもないことで毎日怒られた。怒られても怒られてもわからないことばかりだ。誰も何も教えてくれないし、できるもできないも現場には関係がない。
次第に笑うのが下手くそになった。

で、今朝。

なんだかな、必要なのかな、この傷み。
そんなことばかりだねこの業界。だって怒られないための努力しか今してないし。本当はもっと、学ぶべきことがたくさんあるんだろうけど。

とはいえ。
よく考えたら、後先考えずにとりあえずで無職を選ぶなんてめちゃくちゃな綱渡りだし、今は恵まれている。

縁とは不思議なものだ。
運命はあると思う。
でも多分、生まれた瞬間に決まってるものではない。
運命は手繰り寄せて、時には導かれて、袖振り合う中で、常に変化していく。そんな流動的なものなのだ。わたしが手繰り寄せた運命は、わたしの選択の延長にある。

もしもアパレルをやめなかったら。もしも事務所に入らなかったら。もしも事務所をやめなかったら。もしも、今このタイミングで再会していなかったら。
いやもっと、もっと遡る。
もしも、今愛してやまないものたちに、あらゆる事象に、文学に、音楽に、演劇に、いや、もっと、もっとだ。時代に、季節に、まちに、友人に、家族に。
抗いようのない過去と持って生まれた手札と、頬を撫でた湿った田んぼのにおいに。

疲れたな。そればかり口をつく。
別にどこへも行けなくていいけど、どこかへは行かなきゃならない。
そう思うとわたしってやっぱ空っぽなんだな。
別にね、いいと思う、頑張らなくて。もうやめたって。思うのに、何でこんなに涙が出るんだろう。

家へ帰り、そっとドアを開ける。ダイニングキッチンを漂う空気が生暖かかい。少し前までヒーターが付いてたのだろう。
もう夜中の4時を回っているけれど、何もかもが凍えてしまうわけじゃない。
友人の部屋からは静かな寝息が聞こえる。
ヒーターの電源を入れ、もう一度部屋を温め始める。その前に座りこんで、わたしは本を開く。

クリスマスか。もう年末だな。もうすぐうちへ帰る。去年はここから頑張ろうと祈りながら荷物を詰めたっけ。
今年はどうだろう。わたしの中に、向上心なんてものは残ってるんだろうか。
たかが1年でも、わたしは同じわたしじゃなかった。
いよいよ子どもの時間が終わろうとしている。


ヒーターが強くなり、目が渇いて多めに瞬きをした。
ページを捲る手はすっかり温まり、凍てついた心は溶け、そのうちに流れる水は小さく泡を吐き出した。
両の手の中に収まる傷んだ言葉たちは、わたしに穏やかに朝を運んだ。

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