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思春期の肴

先日見た映画のこと。

(多少のネタバレを含む)

映画のレビューというよりは、ただ感想をしまいたいだけの個人的備忘録なので、映画について知りたい方はUターンしてタイトルの検索を。

1作目は『ハッピー・デス・デイ』

ホラー、なんて身構えて観たけれど、蓋を開けて驚いた。
ホラーなのにループもの。
マスクを被った殺人犯に殺され、目が覚めると同じ朝が始まっている。
そんな気が狂いそうなループなのだけれど、主人公が破天荒なばかりに痛快なコメディなのだ。
最初こそ自分の置かれた状況に困惑するものの、同じ1日を繰り返すごとに、主人公の吹っ切れっぷりがいっそ気持ちいい。

何度もループを重ねるうちに、大切なことに気がついたり、自分を見つめ直したりと、自堕落な生活を改めていく姿には、思わず応援したくなってしまう。

思い人に「何が欲しい?」と聞かれ、「明日が欲しい」とだけ言う主人公に思わず胸が熱くなった。

明日は当たり前にくる。
現実ではたとえ望んだとしても今日をやり直せない。
ならば、「今日」は「今日」のうちに生きなくてはと、少し前向きにもなれる、異色のホラー。
個人的には自由奔放で破天荒な女性には憧れてしまう。

最近は舞台ばかり観ていて映画は久しぶりだったから、「映画って面白いな…」なんて今日初めて映画に出会ったような気分になってしまった。
舞台は小さな板の上でコロコロと変わる(そう見せる)情景が楽しくて、面白くて好きなのだけど、映画は流れるようなカメラワークや、映像だから映せる余白やアングル、それぞれにそれぞれの良さがあると改めて感じられる。

そんな感じで、もう一作品観てみたくなった。

2作目は『少年と自転車』

主人公は養護施設-ホーム-に預けられた少年。
音沙汰のない父親。
週末だけ彼の里親を引き受けることになる美容師サマンサ。
孤独に寄り添う愛を描いたヒューマンドラマ。

同じ1日に見るにはあまりにテンションが違いすぎやしないかい、とは思う。

あまり気持ちの良い検索方法ではないけれど、暗い映画を観たくなって、深夜に「退廃」「サイケ」「終末」「孤独」アングラ」「少年」「少女」「機能不全家庭」「メリバ」「鬱」「アダルトチルドレン」などなど、適当なワードを用いて3ヶ月前に試聴リストに入れていた映画の内の一つである。
検索ワードがオタク丸出しだ。

物語は父親に電話をかけるシーンから始まる。
ホームビデオのような粗さと、少年-シリル-の悲しみを押し殺したような表情。
ドキュメンタリーかと思ってしまいそうな程、とにかくリアルなのだ。

小学生の頃を思い出した。

同級生の男の子。
お父さんがいなくて、お母さんは深夜に働いてるため日中は寝ている。
怖いお兄さんがいる。

調子のいい日は笑顔が可愛くて、明るくて元気。
でもいつも、どこかささくれだっていた。

学校を脱走したり、同級生をいじめたり、喧嘩したり、先生もずっと手を焼いていた。
当時の彼の姿がシリルと重なって、なんとも言えず痛々しい。
結局彼は少年院に入れられてしまい、今はどうしているかわからない。

当時、母によく、「可哀想な子だから」と言われた。
その後に続くのは「許してあげてね」なのか、「あなたは幸せなのよ」なのか、よくわからなかったけれど、今でもずっと、母の言う「可哀想」という言葉が苦手だ。

可哀想、可哀想なのかな。
可哀想だから許すのは、可哀想な彼を指標に自分を恵まれてると思うのは、正しいことなのかな。
それって、私は可哀想じゃないのかな。

いつの間にか忘れてしまった、彼への憎しみなのか哀れみなのかわからない、10年ほどつっかえたままだったのであろう気持ちが、突然こみ上げてきた。
欲しかったものを思い出したり、許したくなかった傷を掘り起こされたり、よくわからないけどめちゃくちゃ泣いた。

多分、「あなたは愛されてる」と母に抱きしめてもらうより、ただこの場所にいることを肯定されたかった。
愛されなければここにいられないと勘違いした私は、いつも必死に笑っていたことに、全く笑わないシリルを見て気がついたのだ。
媚びないどころか優しさを踏み倒していく様子は、不安定なシリルの心をまざまざと描いている。
それでもシリルを抱きしめるサマンサに、羨ましいとさえ思った。

サマンサの愛は偉大だ。
優しくて大きくて厳しくて、いつも真っ直ぐにシリルを受け止めようとしている。
少しずつ変わり始めるシリルが、その愛情の端くれを掴むのはまだ先かもしれないけれど、はっきりと救いも描かなければ、絶望も提示しない余白が、虚構らしくない、生々しい現実に感じられる。

どこにでもある、それなりの、幸せと不幸せ。隣り合わせの綻び。

劇的じゃないけれど、だからこそ心に沁みる。

最近は「大人になった」とはこういうことか。なんて思うことが多くなった。
昔ほど自己の迷宮に囚われないし、世界のどこにも居場所がないと叫ぶこともなくなった。
いや、多分今も居場所がないとは思ってるのだけど、居場所を固めた振りぐらいはできるようになったのだ。

大人になることも、生きる意味も、いつか死ぬことも、何もわからないまま、「大人になった」ことだけはわかってしまったから、それが少し寂しかったから、こうして通り過ぎる過去を、繋ぎ止めたくなるのかもしれない。

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