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常識は、常識があると自負している人こそ非常識になりがちと自覚すべき

スタジオジブリさんて本当凄いと思います。


『常識の範囲でご自由にお使いください。』

常識外の大盤振る舞いをしながら、私たちに常識を求めるなんて、こんなん「常識が何なのかって」誰でも考えさせられるじゃないですか。やだ、もう。

常識を持たずして、このごちそうを食べれないというこの顔なしの気分。


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そして魔法のように消える食事ではないく、珠玉のような作品をどのように使用すれば、常識範囲内なのか。常識とは何かを考えてみます。

常識という概念を少し真剣に考えるには、

『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう』との

アインシュタインの言葉に集約されていると思います。

この言葉に少し付け加えるとすれば、この偏見という名の常識は、十八歳までというよりも日本企業に入社するとより効率的かつ効果的に身に付けられます。

『そんなこと社会人として常識だろ』との脅迫観念にも似た言動をしてきた、諸先輩方も同じように先輩から言われてきたんでしょうけど、ほんと現代ではただのパワハラですし、非常識としか言いようがないことが過去は常識としてまかり通ってました。

枚挙にいとまがないのですが、現代では、飲み会の席に限らず、会社関係の間柄で、「将来、結婚する予定はあるのかと聴く」、「子供を作る予定はあるのかと聴く」、なんて論外ですし、「週末の予定は」とか聞くだけで、個の侵害とパワーハラスメントの定義にあてはめられます。むろん、相手から進んでそのような話をするのであれば、問題ないのですが、「彼氏はとか彼女はとか」そんなことを人に聞くというのを会社関係の間柄で入れ込むこと時代がもはや常識外れということになります。

しかし常識の難しさというのは、一方的に常識外れと言い切れないところにあります。先の常識だけの距離感であれば、希薄な人間関係になるという意見も当然あります。

また常識は人によって異なる側面があります。

例えば、会議の5分前に集合するのが常識と考えている人もいれば、ぎりぎりまで別の業務をしているのが常識で、5分前に集合しているのは、仕事がない暇な人間という見方もあります。

飲み会の翌日は、ご馳走になっていれば、お礼のメールを朝一で送るという常識で育ったわたしが、若い人たちが誰ひとりそんなメールを送らないことに常識外と言い切れるかというを、業務中に業務外のお礼のメールを送るということ自体が非常識だとの考えも当然にあります。

仕事のうえでも、多様なアプローチが増えました。対面で話す、部署に設置の固定電話(このことが理解できる若い人が少なくなったらしい)に電話をする、社用スマフォに電話する、メールをする、スラック、チームス等のチャットにて問い合わせをする等です。これに加えてたまに郵送とか、もう過去の時代の産物ですが、FAX依頼とかもあるのでびびります。

急ぎの依頼は電話でするのが常識だという考えもあれば、電話は非効率だから急ぎであってもメールにて文書依頼をするのが常識という考えもあります。どんな状態かわからないのに相手のスマフォに直接電話するのは失礼にて非常識という考え方もある。

メールにプラス電話をかけてくる人もいれば、急ぎの依頼だけだも一方的に納期を指定してメールしてくる人もいます。そして、懇切丁寧に依頼作業をして、多少のコメントをつけて返信しても、なんらのお礼メールがない場合もあります。または単純な依頼でもお礼をメールが多く、業務なので、そんなの不要ですよと返す場合もあります。どれも常識的に正解ですし、どれも常識的に不正解とも言えます。

ビジネスに限らずですが、それまでに教わってきたことや、その時の状況、また境遇によっても常識というのは、変わってくるものなのかと。

何が言いたいかというと。常識とは、自身と相手の常識の範囲を合わせる作業を行い、そのかぶる範囲を探る作業ではないでしょうか。つまり、一方的に自身の常識を振りかざし、相手を常識外と決めつけることが一番常識がない行為だと。この常識の重なる範囲を探る作業には、かなりの胆力が要ります。

少し話がそれますが、そもそも相手に日本語が伝わっていると考えない方がよい場合も多々あります。世界的に見て、日本語が少数言語だからと言いたい訳でなく、昨今、動画全盛の時代ですし、メール、社内の掲示板等に記載された言語など、2割も伝わっていると考えない方が良いです。こんだけ言っているのにと感情的になってもそもそも、ほぼ何ら伝わってないとの前提で人とコミュニケーション取ってる方が賢明です。これ真面目な話。

さて本題に戻しますと新型コロナウィルス渦での「飲食店に店閉めなきゃ燃やすとの張り紙をする」等のいきすぎた自粛警察や、機長の命令を聴かずに飛行機内でマスクをしない旅客なども、相手の常識とかさなる範囲を探るということができない常識外の行為と思います。自身の常識だけが正しいと信じてやまない常識外れの人たち。

本当に常識があると会社や社会で自負してる人こそ相手の振る舞いが非常識だといつも怒ってたりします。

そして本当は常識がある、常識がない、ではなく、常識が合う、合わないだけの問題なのです。

そして一番忘れてはいけないのは、第二次世界大戦中は、戦争に反対する、平和を訴える行為は非常識と言われ、非国民とだったことなのかと。その国の体制下では、非常識であった。常識が圧倒的な多数の考えや意識であるという訳でなく、抑圧された意識の中のほんとの常識はあったのだと信じたいです。

ただ、世の中全体が狂った方向に行ってた時に良識を持ってただけなく、この時代に非常識にも戦争に反対した人のことは軽々に論じれません。

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常識って国というか、状況によっても変わるものだと思います。例えばヨーロッパのアパート(日本で言うマンション)内に入ると中庭があること建屋も多いのですが、その時に同じ建屋の隣人に逢うと必ず、挨拶をします。ほぼ例外なく挨拶をします。また小売店に言っても店員さんとほぼ必ず挨拶をします。

日本では、この同じ状況下で挨拶しない人も一定の割合でいますし、比較するとかなり多いです。これは挨拶をしない日本人が非常識と言いたい訳でなく、日本が比較的安全な国ということが理由だと思います。

何故、挨拶をするのかと突き詰めると、国境と言われる境目が陸地続きでいろんな常識を持った人々が入り交ざっているヨーロッパ大陸の環境がある。そんな中、挨拶は、好意を表すというよりも一時的に敵対しないということを表しているのです。つまり、「急に殴りかかったりしないよ」とのことを挨拶で表すのです。

日本でも山岳に登山に行って、人が少ない場所にて、偶然に人と通りすがる場合は、ほぼ必ず相手と挨拶を交わします。それはもう危険を察知するために相手の出方や声を聴くという本能のようなものなのかもしれません。

またヨーロッパにて女性を窓側とか、奥の席に座ってもらうという常識も、入り口から、誰かが攻撃してきても一番逃げれるような位置にという配慮です。ロングコート脱いでから入出するという常識も、コートの下に武器を隠してないことを示してますし。常識には理由がありますが、それは状況によって変わるものと言えます。

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こちらの要望を伝えつつ、相手の世界におけるルールを聴き、話し合う。千と千尋の神隠しの一場面ですが、これが常識的な見本なのかと思います。この時に誰も、一方的に自身の常識を振りかざし、相手の世界観を常識外と決めつけていない。自身と相手の常識の範囲を合わせる作業を行い、そのかぶる範囲を探る打開策を話し合う。

千尋がだんだん成長する姿が素晴らしいとの評がありますが、私の積み重なった偏見からすると「日本人の男性でこの千尋さんより賢くて常識的に相手の考えを許容できる人はかなり少ない」と感じる昨今です。

常識にて唯一確かなこととは、自身の常識は絶対に間違ってないとして相手と接する人は非常識(常識合わす気もない)ということです。

そして今回の常識の範囲内とは、「宮崎駿さんの悲しむような使い方はしない」ということかと思い自身の常識の範囲内で有り難くジブリの絵を使わせて頂きます。