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コロナ渦にて廃れた会社の「飲み会」は同一性を確認するために存在してたのか、改めて考える。

コロナにより、日本の飲み会文化がすっかり廃れたました。無くなったと言っても過言ではありません。今の時期でも飲み会に誘うと、リアル飲み会ですか?なんて聞かれるし、またリアル飲み会を再開したときに言われる言葉は、「コロナ後に人と飲むのは、今年3回目です」というような回数を確認する言葉まで飛び出します。飲み会がなくなって寂しく思っている人もいれば、無くなったことで喜んでいる人もいると思います。

飲み会がある日常にて存在していた居酒屋等のお店の方々の苦境は言うまでもありません。そのうえで、無くなってしまった会社の飲み会を考えてみます。

飲み会って、会社で言えない話をすることが多いと思えば、会社の人の話も良くします。その中で、あいつは変わってるとか、人の話をよくしたりします。または、面と向かって年配者が「ちょっと変わっているね」と相手に向かって、言う場面を見かけます。言い方によっては、陰口も直接いうのもハラスメントの時代ですが、時代遅れにも(それがかっこいいと勘違い)気づかない人が多いです。

しかし、良く考えてもらいたいことは、変わっているというのは、誰基準、何基準ですか?その基準から遠い、近いだけをもって、安心感を共有するために飲み会を開いているのでしょうか。人が変わっているという言葉に自分は変わっていないという基準に近い同一性を宣言してないですか。

勘違いされて困るのは、私は、飲み会推進派で、今まで数多くの飲み会をしてきました。幹事役をしたことは数え切れない。そういう意味では、よく不思議な謎人脈があると言われております。

ただ、一方で、日本の飲み会は、同一性を確認して安心感に浸り、違いがあるものを排除までしないものの、もっと陰湿に村八分にするとの批判も正直当たっていると思います。

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司馬遷の史記にある馬鹿の語源のひとつと言われる「鹿を指して馬という」ことの踏み絵のように、鹿であろうと馬と言えるかを確認しているために飲み会を利用している人もいます。鹿と正しいことを言った人間を抹殺する。馬鹿になって、同一化して、会社の業務に邁進するモーレツ時代の発想から抜け出せない。ブラック企業文化です。

そりゃあ、飲み会を敬遠する若い人が増えても仕方ないし、そんなんならコロナを機に飲み会を全面的に廃止しても良いと思います。

本来は、異質な人、自分と違う変わった人が活躍できる企業が活力ある企業で、ダイバシティと言われますが、日本企業のそれは、多様性を抑えるために存在しているダイバシティもあるくらいです。

同一性で勝てる企業を作れると本気で信じている人がいるならば、あの敗戦から何も学ばなかったのか、史観はあるのかと問いたいです。

そう意味で、ほんとに”あの”日本の飲み会が廃れて、嬉しく思っています。

しかし、それでも私は、個人としては飲み会文化を再興したいと思ってます。ただしそれは次の前提でです。

■たとえ会社間でも利害がある飲み会は原則しない(そんなとこで媚売って面白いのか、またほんと利益あるのか)

■あくまで対等な関係として接し自分と異質な人が価値があると考える

■会話を軽妙に楽しむことを前提とする(人に飲むことを勧めない)

「強くなければ、生きていけない、優しくなければ、生きる資格すらない」という映画のセリフがありましたが、同じように人と楽しくお酒を飲める資格があるかと問うべきかと思います。

会社の関係が切れて、飲み会に誘われなくなったらもはや、利害だけで飲んでもらっていたと感じるべきです。利害なく相手と会話して、相手から学べることがあり、楽しく飲めてこそ、本物の日本の飲み会文化になることを祝して、乾杯したいと思います。