波多野暁生/Akio Hatano

2020年3月に交通犯罪により11歳の一人娘の耀子を失いました。 私も一緒に轢かれ重傷…

波多野暁生/Akio Hatano

2020年3月に交通犯罪により11歳の一人娘の耀子を失いました。 私も一緒に轢かれ重傷を負いましたが、生き残ってしまいました。 https://www.skyblue-shouldbe.com

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被害者はつらいよ、葛飾四つ木編

世の中には様々なタイプの被害者がいる。 人為的ミスによる事故、災害、虐待、誹謗中傷等々、どの様な被害があり、どの様に苦しんでいる人がいるのか? これを網羅的に把握している人は存在しえないだろう。 私は犯罪被害者であり犯罪被害者遺族である。 いやいや交通事故でしょ?と思われる方もいるかもしれない。 確かに、どうにも避けられない交通事故と言うのはあると思う。 一方で、娘と私は、赤だと分かっていてわざと信号無視をした直進車にノーブレーキの時速57㎞で、青信号の横断歩道上で轢かれ

    • ChatGPTに聞いてみた

      学生時代、校内に計算機センターという施設があった。 数十台のパソコンが並べられ、各々の学籍番号を入力すれば、インターネットが使える、そんな施設だった様に記憶している。モニターはすべてブラウン管であった。 時代は90年代末、私はインターネットネイティブ世代(正確にはデジタルネイティブというらしいが)である。 ポケベルを使い、PHSをピッチと言っていた世代でもある。 今の10代、20代はAIネイティブ世代になるのだと聞く。 AIは世の中の多くをガラッと変える、パラダイムシフトが

      • 子供との死別を抱えて生きると言う事

        生活のための繁忙期がもう間もなく終わる。 同規模同業者(すなわち1人自宅でカタカタやる業者)に比較してもかなり少ないであろう繁忙期業務のうち、2月末を期限とするものが終わり、その他残りも数件となった。 ヤレヤレと卓上カレンダーに目をやると、来週また3月14日がやってくる。 娘の祥月命日である。(娘が死んだ日、殺された日と言うべきか) 3月になり、世間では、ちらほらと卒業式に関するニュースなども目立ち始めた。 今年、娘は中学校を卒業し、高校生に進学する春を迎えるはずであっ

        • 本当に火を消したくない人はいるのか?

          幼少期、祖父に教えてもらいながら焚き火をするのが好きだった。 普段は両親から火に近づくことなど禁じられていたが、一人で祖父母の家に遊びに行った際などは、祖父に庭で焚き火をする事を許された。 もう40年近く前の話である。 祖父は特に見守ると言う事もなく、たまに様子は見に来たが、好きに焚き火をしてみろと言うスタンスであった。 この10年ほどはやたらにキャンプだとか、焚き火だとかがレジャー的にもてはやされる傾向があった様に思うが、40年前は庭先で枯れ木や枯れ葉を処分する、言わ

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        被害者はつらいよ、葛飾四つ木編

          noteを書き始めて1年

          年初から辛いニュースが続いた。 子を失った親にとって、クリスマス前後から始まる年末の華やいだ雰囲気や、正月の各地の様子などは、二度と亡き子とのその様な時間を過ごせないと否応なく意識せざるを得ないため、大変に辛いと一様に聞く話である。 今年は、1日から多くの人が突然に亡くなる、子供も亡くなるニュースが連日続いた。 ニュースは徐々に落ち着き始めると経験則上分かっているが、突然の喪失で全く日常が変わってしまった方達の一つ一つの人生に、当面は落ち着く事などない過酷な日々が続く事

          noteを書き始めて1年

          逆縁

          自身が小2ぐらいの頃だったか、祖父が眠る墓に出かけ、普段は仏壇で2本しか焚く事ができない線香を墓石の前で二束まとめてボンボン焚く様子に、ワクワクしたのを記憶している。 墓参りの締めは墓石にビールをかける事であった。 たまに孫代表としてビールかけの役目を許された。 普段はさわれないビール缶を握り、思う存分墓石のてっぺんからビールをかける。 墓石にビールの泡がしみて行く様を、今も覚えている。 「じいちゃんも喜びなすっとろう。」 祖母や親せきの大人などに笑顔を向けられ、子供心に

          受刑者からの手紙③

          依頼された仕事の関係で、水戸街道を下り、金町の少し先辺りで西の方へ進路を取るべく出かけた。 外環道路を頭上に仰ぐ国道に入ると、ここだったか、あそこだったかと、記憶にあるはずの交差点の右折車線を探した。 結局、どの右折車線かは思い出せずじまいで、真っすぐと仕事先へと向かった。 記憶にあるはずの右折車線を曲がった先には、受刑者の自宅がある。 事故証明書には、受刑者の住所も電話番号も無機質に記載されている。 刑事裁判が始まる前、当時は被告人だった受刑者の自宅周辺へ行った。 もち

          受刑者からの手紙③

          四日市、志、執念

          毎年、11月25日から12月1日は犯罪被害者週間である。 犯罪被害者週間とは、犯罪被害者等が置かれている状況、犯罪被害者等の名誉又は生活の平穏への配慮の重要性等について日本国民の理解を深めるための啓発事業を集中的に実施する週間、との定義らしい。 娘の事件が起きたのは令和2年(2020年)であった。 コロナの中、世の中の基本がリモートであった頃を経て、昨年令和4年に私は初めて犯罪被害者週間と言うものを意識した。 犯罪被害者のネットワーク集会に初めてリモートではなく、対面で参

          四日市、志、執念

          娘の字、クリスマスツリー

          昨日探し物をしていたら、娘との交換日記が出て来た。 2015年~と表紙に書いた私の字が見えた。 少し中を見ると、娘の字があった。 今も、娘の字、娘の声に触れるのが苦しい。 だから交換日記はすぐに閉じた。 今朝は、妻が押し入れからクリスマスツリーを出していた。 娘がこの世からいなくなってから、今年、初めてツリーを出す。 私は何も手伝わず、ツリーを購入した当時の思い出話をする妻の話を聞いていた。 ツリーの前ではにかむ娘の写真を妻が見せてくれた。 外出の予定があり、身支度を整え

          娘の字、クリスマスツリー

          封印と喚起 直談判狂いの時系列整理(追記)

          ある時期から、書くことを一定周期ごとの課題にして生活を刻んできた。 書くことによって気持ちを鎮め、怒りを整理して来たと言っても良い。 上記のnoteにも書いた事だが、自らが体験した理不尽を社会に訴える作業は、一緒に歩いていながら守ってやれなかった娘への日常的な想いの封印と、喚起の繰り返し作業である。 その想いを封印せねば語れないし、喚起せねば語る事が生まれない。 先月は被害者の会(退会済み)の立ち上げに伴って、メディアの取材を受ける事も多く、取材を機会にこの1年ちょっと

          封印と喚起 直談判狂いの時系列整理(追記)

          受刑者からの手紙②

          Amazonで本を購入したので、配達完了のメールを見て、郵便受けに配達物を取りに行った。 時刻は23時少し前、共用スペースは静まりかえっていた。 郵便受けを開けると、配達済みの本と一緒に、白い封筒が見えた。 長野刑務所からの封筒だとすぐに分かった。 上記のnoteにも書いた通り、 私が受刑者への手紙のやり取りを迫る理由は、彼自身が犯した罪が、どこか遠い出来事でも、アクシデントでもなく、紛れもなく自分が犯した事であり、彼も人の親なのであれば、娘の人生の殆どを奪った事に向き合

          受刑者からの手紙②

          また少し大人になってしまった。

          この7月から色んな動きがあり、忙しない日々であった様に思う。 来月以降もチョコチョコと予定はあるが、何か合意形成を伴うようなものではなく、ほぼ、自身単独の動きに戻るので、精神的な負担は軽くなった。 喪失、悲嘆、憤怒、絶望そうした思いが原点である事は、言わずもがなの共体験、共原点であろう。 しかし、自らが不合理だと思う事が、他の人にとっても不合理であると同意を得られる保証はない。 日常の限りある時間の中で、その不合理への対峙にどの程度の比重を傾けられるか? その熱量と時間軸

          また少し大人になってしまった。

          クローズアップ現代を見ました。

          昨晩、NHKのクローズアップ現代が無事に放送された。 本来であれば、先週の放送予定だったが、地震速報の関係で放送が延期になっていた。 まずは、無事に放送されて良かった。 番組冒頭で、私から番組宛てに出した手紙がきっかけで、取材が始まったと桑子真帆キャスターが話した。 正確には、私から出した手紙の宛先は桑子真帆キャスターであった。 投函したのは2023年5月29日。 相変わらずの直談判狂いで手紙を書き、書き溜めていた資料も同封してレターパックをゴリゴリとポストに押し込んだ

          クローズアップ現代を見ました。

          大分で警察官の方達に伝えたかったこと

          宿に着くと娘の写真と小さい方の骨箱をどこに置くか?それをまず考える。 外の景色が見える様に窓際に置こうか、やはり一緒に旅をしている気分に落ち着くベッドの近くに置こうか。 娘が死に、この世にいない事は事実としては分かっている。 しかし、心では分かっていない。 頭の中のそのザラつきを感じながら、今回はやはりベッドの近くに置くことにした。 昨年の9月中旬、大分で初めて街頭署名活動と言うものに参加した。 その大分を約1年ぶりに再訪した。 自分がどうしても実現させたい企画があったから

          大分で警察官の方達に伝えたかったこと

          受刑者への返信

          私が受刑者への手紙のやり取りを迫る理由は、彼自身が犯した罪が、どこか遠い出来事でも、アクシデントでもなく、紛れもなく自分が犯した事であり、彼も人の親なのであれば、娘の人生の殆どを奪った事に向き合い続けさせるためである。 裁判所に危険運転致死傷罪が認められた後、何人かの人に、危険運転に認定されるに足る条件が揃ってラッキーな事案だったと言われた。 さらに、受刑者から手紙の返事が来ることも珍しく、これもラッキーというニュアンスの事らしい。 こうした発言は、最前線でこういう事案に

          無知、無理解、無関心と私のあがき  (被害者支援都民センター遺族の手記第23集より)

          11歳の娘を失ってから1192日が経った。 我が子を突然に失ってから1200日近い日々をどの様に過ごしてきたのか? 犯罪被害当事者ではない親御さん達には想像すらできない事だろう。 想像したくない。考えたくもない。それが普通の反応だと思う。 私も事件前はそうであった。 自分自身が犯罪被害に遭う可能性はゼロではないとは思っていた。 しかし、それは身体的に危害を加えられるというものではなく、詐欺に遭うかもしれないくらいのイメージであった。 まさか、我が子が被害に遭い、そして命を奪わ

          無知、無理解、無関心と私のあがき  (被害者支援都民センター遺族の手記第23集より)