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無知、無理解、無関心と私のあがき  (被害者支援都民センター遺族の手記第23集より)

11歳の娘を失ってから1192日が経った。
我が子を突然に失ってから1200日近い日々をどの様に過ごしてきたのか?
犯罪被害当事者ではない親御さん達には想像すらできない事だろう。
想像したくない。考えたくもない。それが普通の反応だと思う。
私も事件前はそうであった。
自分自身が犯罪被害に遭う可能性はゼロではないとは思っていた。
しかし、それは身体的に危害を加えられるというものではなく、詐欺に遭うかもしれないくらいのイメージであった。
まさか、我が子が被害に遭い、そして命を奪われる等という事は一瞬たりとも考えた事は無かった。
犯罪被害について、「知らない」、「その実態を全く理解していない」、「特別な関心も無い」、「対岸の火事」、「ニュースの中の事」、「気を付けていれば自分は大丈夫」、そう思っていた。

しかし、そうではなかった。

2020年3月14日、私と11歳の娘は青信号の横断歩道を横断中に左方からノーブレーキで赤信号無視をして突っ込んできた軽ワンボックスに轢かれた。時速は約57㎞出ていた。
娘はほぼ即死であった。
私は重傷を負ったが生き残ってしまった。

運転手の男は我々を轢く地点の約70メートル手前から対面信号が赤である事を認識していた。しかし身勝手な理由によりアクセルを踏み続け、信号を無視して交差点に突っ込んできた。男はその道を通勤で約40年間使っていた。使い慣れた道だった。

2022年3月、男には懲役6年6ヵ月の判決が出た。
ある新聞記者からは、交通事故にしては重い判決だと言われた。
私にはそうは思えなかった。

男はついに自ら謝罪をしてくることは無かった。
刑事裁判が始まるより半年ほど前、ある事をきっかけに我慢の限界に達した私は、男の自宅に電話をかけ、留守番電話に激しく責め立てる言葉を残し、そのまま男の弁護士にも電話をした。
その日のうちに、検察官から私に電話が入り、そうした事は控えねばならないという注意を受けた。男の弁護士から検察官に連絡が入ったそうだ。
捜査、起訴、公判までの間、どれだけ理性的に我慢することを強いられれば良いのかと、納得がいかない思いだった。

しかし、それでも犯罪被害者を取り巻く環境は以前より格段に改善されたらしい事を後に知った。
改善のきっかけは、犯罪被害者である当事者の方々が過去に声を上げ続けて来た歴史があったからである。
近年の犯罪被害者の処遇改善は1990年代から芽吹き、2000年代に犯罪被害者等基本法の制定や被害者参加制度の施行により、社会に実装された。
自身が被害者遺族となり、司法手続きをはじめ、多くの事に疎外感と制度の未整備や配慮不足を感じたが、それでも、公判では法廷でバーの中に入り、被告人質問をし、心情の意見陳述を行う事ができた。
これらを公判で行えた事が判決に効果的な影響を与えたとは思わないが、被害者遺族には何らの発言権も無く、傍聴券に外れれば自身が被害者である公判の傍聴すらできない時代があった事を考えると、制度が出来る以前の被害者の方々に比べれば、出来る事は増えたのだと思う。

しかしである。

過去に行われたこれらの処遇改善が、0から1を作り出す作業であったとしたら、引き続き1から、1.1、1.2、1.3….2.0へと改善を続ける必要がある。そして、その余地が今なお多く残っているのではないかと思う。
その事を考える際、具体的な改善の為には被害当事者の生の声を拾う事は必要不可欠ではないか?

被害当事者の中にはそうした事について多くは語りたくない、そっとしておいて欲しいと言う方もいらっしゃるだろう。あるいは、本当は色々と感じていて、それを伝えたいけれども、誰に、どの様に伝えれば良いのか分からないと言う方もいらっしゃるだろう。伝えたところで取り合ってもらえない、好奇の目に晒されるだけだと言う不安も常に付きまとう。

最近は、インターネットやSNSの発展により、報道を通じなくても自身の体験や考えを社会に発信できる手段が格段に増えた。
ただ、私自身ががむしゃらに発信し、報道機関、国会議員、学者、警察、検察などにも手紙を送ってみたが、実際にその声に耳を傾けてもらえる雰囲気があったかと言えば、残念ながら事実上はスルーされる事の方が多かった。(私が訴えているのは危険運転致死傷罪の適用漏れの是正である。)

無知、無理解、無関心の壁は厚い。

物事を推進させる作業の殆どが上意下達で行われるのが現実だと思う。では、犯罪被害者の実態について知るべきであるという意識が、上意たる人々にあるのかと考えると、実際は極めて希薄だと言うのが今のところの実感だ。

私自身は交通犯罪の被害者遺族であり被害者であるが、この1年で、無知、無理解、無関心の壁の厚さを痛感する下記の様な言葉に触れてきた。

「『運が悪かったね』」という言葉を交通事故の人に言うのは、これは結構です。」
「交通事故問題は選挙で票にならないから、取り組む国会議員は少ないんですよ。」
「各被害者の意見をいちいち聞いていたら収拾がつかないのです。」
「波多野さん個人ではなく、複数の人の為になる要望なのかが重要なので、うまく社会問題化して頂かない事には・・・。」
「今は故意の殺人犯による犯罪被害者支援対策に注力しているので、交通の問題は別なんです。」
「ご意見は今後の参考にさせて頂きますが、具体的にどの様な対策を講じるかはご説明出来かねます。」

皆、一様にお気持ちは分かりますなどと言うが、私がどの様な思い(覚悟)で発信し、訴えているのか、この人達の殆どは知らないし、本心では関心が無い。
だから、当然、何を訴えているのかも理解しない。ただキャンキャン吠えているお気の毒な人の一人という無関心の泡に飲み込もうとするだけである。
発信者が私では無ければ聞いてもらえるのか?それはわからない。

しかし、私は被害当事者が経験した過酷な現実から抽出された生の声にこそ、次の事件を生まないための予防策、改善策の具体的な課題が詰まっていると確信している。
だから、理想論だとの批判は承知の上で、それらの課題について知見を持つ『非当事者の方達』が、その知見を集約し、社会に実装させる事こそが、改善へと繋がる唯一の道なのではないかと考えている。

これは交通犯罪や私が拘っている危険運転致死傷罪の問題だけではなく、他の犯罪抑止や犯罪被害者支援にも共通して言える事ではないか?
今後、あらゆる犯罪がゼロになる事は無いだろうし、被害者の過酷な現実がたちまち改善される事も無いだろう。しかし、次善の策は磨き続けねばならないのではないか?

現実は、上意たる方々の関心は希薄なまま、生の声とは全く別次元で繰り出される(耳障りだけは良い)空疎なフレーズによって、「お気の毒な人達のかなしみのエピソード」という認知の枠を出る事ができぬままである様にも思う。そして、本来拾われるべき当事者の生の声は、定型化されたアンタッチャブルな問題として放置され、やがて音を無くしていくのではないかとも。

無知、無理解、無関心の厚い壁に阻まれながらも、然るべき上意層にどの様に声を伝えれば良いのか、孤独の中であがく1192日目である。

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