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受刑者からの手紙③

依頼された仕事の関係で、水戸街道を下り、金町の少し先辺りで西の方へ進路を取るべく出かけた。
外環道路を頭上に仰ぐ国道に入ると、ここだったか、あそこだったかと、記憶にあるはずの交差点の右折車線を探した。
結局、どの右折車線かは思い出せずじまいで、真っすぐと仕事先へと向かった。

記憶にあるはずの右折車線を曲がった先には、受刑者の自宅がある。
事故証明書には、受刑者の住所も電話番号も無機質に記載されている。

刑事裁判が始まる前、当時は被告人だった受刑者の自宅周辺へ行った。
もちろん何もしない。ただ、行かねば気が済まぬと思い、行ったのである。

その事を考えながら、仕事先へと向かった日の数日前、長野刑務所から再び手紙が届いていた。

今回は2通。

1通は、日記であった。

お菓子、休日の朝食、将棋、運動会の事などが書かれていた。

運動会で実際に活躍するのは若い受刑者で、老人の受刑者は応援に回る事、全員にお菓子とジュースが配られ、夕食には銀シャリが出てとても美味しく、楽しい1日だった事。

そんな事が書かれていた。

11月下旬には、工場で今年初めてストーブが付けられ、やっぱりストーブを付けると暖かい、もっと付けてほしいけれど贅沢は言えない。私は罪を犯してここにいるのだからと思う。

そんな事が書かれていた。

年内には私からも返信を出さねばならないなと思った。

2通目は、事件が起きた瞬間の事を覚えている限り書くと言うものだった。
娘がその瞬間にどの様な状態だったのか、妻が知りたいと言っていた。

「車で波多野様をはねた時はフロントガラスに波多野様の頭がぶつかりフロントガラスがくもの巣の様に割れ、その瞬間波多野様は車の前方にとんでいったとおもいます。車から降りると耀子様が…」と娘の様子が書いてあった。
娘の唇が紫色に変わっていくのが見えたと書いてあった。

私は加害者両に衝突した記憶が一切ない。
車が突っ込んできている事にすら気が付いていなかった。
記憶が戻ったのは自身が搬送された救急車の中からであった。

しかし、受刑者からの手紙によると、私は轢かれた後、立ち上がり娘のそばに近づこうとしたが、途中で力尽きて倒れ込んだそうだ。

事件から3年半以上の時が経って、初めて知る事であった。

自分の役立たずな有様を受刑者に教えてもらった様な気持ちになった。

仕事を終えた帰路、どこで左折すれば良いか記憶をたどった。
それらしき場所でハンドルを左に切り、住宅街に入ると、程なくしてかつて訪れた場所が目の前に現れた。

車から降り、ぐるっと一周歩いた。

そしてまた水戸街道を目指して帰途についた。

娘は、今週、15歳の誕生日を迎える。


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