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新宿梁山泊「奇妙な果実~マルコムXと金嬉老~」観劇の感想

先日、新宿梁山泊の『奇妙な果実 』を恵比寿はシアター・アルファ東京にて観劇しました。
この劇団の作品は2015年の『二都物語』以来で、その時は名物ともなっている花園神社境内の特設テント内でした。

梁山泊と言えば宇野亜喜良さんの独特なアングラビジュアルが印象的ですが、今回は副題に『~マルコムXと金嬉老~』とあるように彼らの写真を使用しており、かなりシリアスな内容かと想像していました。
しかし蓋を開けてみるとテーマはしっかり押さえつつ、見事なエンターテインメントに仕上がっていました。

ストーリーラインとしては1968年、金嬉老という在日韓国人が起こした実際の殺人および立てこもりに端を発する一連の事件をモチーフに、アメリカの黒人解放運動の指導者でもあったマルコムXを絡め、「差別」とは何か、「命」の重みとは何か、「自由・平等」とは何か、といったリベラルなテーマを描いています。

しかし、それをエンタメとしてどう演出するか、そこが見どころでもありました。
『奇妙な果実 』はそれを「音楽」の絡め方によって上手くまとめていたと感じます。
SE的なBGMとは別に、ブラスセクションも入ったバンドによる生演奏が随所にあり、それを酒場のステージという劇中に創り出し、役者が演奏することでリアリティを損ねることがなく、観客は自然と物語に注力することを可能にしていたと感じます。
感心しました。

話をテーマに戻しますと、いわゆるリベラルと呼ばれる思想が、現代においてはかなり眉唾的な、かつての共産主義的理想主義のように認識されてきたように感じますが、それは「正義」を掲げる人々の欺瞞が、ポストトゥルース時代の幕開けにより表面化してきたからだと思います。
資本主義が金融そのものにようる自己増殖を目指すような状況になり、貧富の差が広がることで世界はより二極化が加速していると感じます。
その理由についてはここでは触れませんが、そういったい二項対立的な価値観が先鋭化する背景に、事象を深く考察することを「コスパが悪い」とみなし、単純化して「論破」する流れがあると思います。

差別や自由、平等といった言葉の理解は出来ても、その中身はそれぞれの立場によって、歴史によって、地域によってさまざまです。
それらをひとくくりにまとめることは出来ないという前提に立った議論を拒絶するのが、先の「論破」系で、Twitterなどの短文投稿で短くサクッとかっこよくうまく言った者がもてはやされる傾向にあります。

この作品の主人公、金嬉老は実在の人物で、実際は前科も多く素行は悪かった、とはアフタートークでも話していましたが、そのようになる背景を鑑みる必要があります。
戦前戦中の日本の軍国主義化、それに伴う植民地支配の実情や、在日朝鮮人が置かれていた状況をさかのぼって考えると、結局その先にある西洋近代化とは何だったかに行きつきます。
そうして大きな流れを掴むことで、現在起こっている問題がいかに難しいものであるかが分かってきます。

在日朝鮮人問題に比べると、アメリカをはじめとする黒人差別問題は比較的分かりやすい構図であると思います。
スケールは大きいですが、「過剰」な存在としての人間が強大な権力を持つとどうなるか、それについてはあまり変わらないのだろうと思います。

観劇の後、金嬉老を知らなかったので少し調べてみましたが、かなり数奇な人生を歩んだ人で、実際は81歳まで生きています。
メディアを巻き込んだ劇場型の犯罪でもあり、興味深い事件であると思います。

観劇前まで、この事件を知りませんでしたが、当時の人にはとても印象に残る事件だったようです。
三島由紀夫の割腹自殺、あさま山荘事件などは折に触れテレビなどでも見る機会がありますが、そういった事件以外は忘れ去られていくものが多いのだろうと思います。

最後に、今回個人的に印象に残ったシーンは、酒場での桜川信(島本和人)の変貌ぶりです。
このモデルはおそらく桜〇修だろうと思います。
実際はどうか分かりませんが、極右団体を束ね、ヘイトスピーチを行う「レイシスト」であるはずの桜川が、自称やくざの時期組長の男と酒場(在日が多いキャバクラ)で行われていたイベントで、楽しく飲んで遊んでいます。
ホステスに「朝鮮人嫌いじゃなかったの?」と言われ、「それはそれ、これはこれ」と言うんですが、それが、実は信念などない「ネトウヨ」を皮肉っているようでリアルでした。

過激思想といっても筋金入りのものは実はそんなに多くなく、ましてや『本物の右翼』はもう日本にはいないのではないかと言われています。右= 権力におもねるのは、個人的な日常の不満を解消するために、権威主義を借りることが「コスパがいい」からで思想などないのがほとんどです。
ヘイト行為に至るには周囲の環境もあるでしょうが、社会的弱者を貶めることで自分自身の劣等生を隠すことが出来るため、二極化が進むほど、そういった人々は増えていくと言われています。

世の中はリベラル志向で行く方が平和になっていくのだけど、そのリベラルを唱えるものが清廉潔白でなければならない、というような方向で認識され、唱えるものも「絶対正義」を持ち出して正統性を述べてしまうことで多様性の自己矛盾に陥り、結局否定している者と同じレベルの話になってしまいます。
そのようなことは劇中でも酒屋の彼も言っていましたね。

まずは世の中は複雑である、ということが前提に立った議論が必要なのだと思います。
論破は、問題の「ある一面」しか示すことができません。

複雑なものを単純化するのはビジネスでは有用かもしれませんが、人間関係や歴史認識においては思想の硬直化を促進し、全体主義化への危うい傾向であると思います。

と、自分は色々と考えてしまいましたが、舞台はとてもエンタメとして面白いものであったことを、改めてお伝えして終わりといたします。


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