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大坂なおみさんとオリンピック、そしてスマホ脳について考えた

『スマホ脳』『オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉』

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先日書店でこの2冊を購入した。

目的は『スマホ脳』だったが、いつものように目についた面白そうな本をついでに追加した。

『スマホ脳』はポピュラーサイエンス向け、と著者も書いている通り、本当はものすごく専門的な精神科医だけど、啓蒙のために難しく書いていない。
そのためとても読みやすいし、それでいて深みも感じる良書であったと思う。

自分には物足りなさもあったが、憂えるべきはやはり”スマホネイティブ”なんだと思う。

物心ついたときからそのデバイスとテクノロジーに触れていることの懸念。
私は独身で子供もいないので客観的にしか見れないが、親であればすぐさまスマホを取り上げるか、それに触れる時間を削ろうとするかもしれない。
それは人文的な知見に立てば、という意味だが。

ネオリベラリズムの社会で利己的な支配者を目指すとするならば必ずしもそうではない。
それはある意味で現実的であり、それを子に託す親もいるだろう。

テクノロジーの進化については色々な分野で警告はされているが、結局その速度に対して人間が適応するには構造的に無力である、ということで、実験状態にあるのが現状だろう。

ある意味でコロナもそうだ。
mRNAワクチンについて研究は随分前から行われていたようだが実用化はされなかった。
それが”緊急事態”によってスピード認可され、現時点では何も問題ないように見える。
しかし、これは壮大な治験に他ならない。
無条件に喜べるものではないと思っている。

この『スマホ脳』というタイトルだけでは購買意欲をそそられないが、”ある方”がお薦めしてくれていたので読んでみたいと思った。
これがいわゆるインフルエンサーマーケティングに繋がっているのは否定できない。
そのインフルエンサーが誰かで質は決まる。
ちなみに”ある方”は広義のインフルエンサーではない。単に自分が信頼する人、というだけだ。

『スマホ脳』は3~4時間もあれば読めてしまうので通勤電車でちょびちょび読んでもすぐに読み終わるのでお勧めだ。

で、次の書。

沢木耕太郎さんの『オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉』これは『ナンバー』というスポーツ系雑誌に連載されていた「廃墟の光」をもとに単行本化したものの、再販文庫版だ。

沢木氏はその前に『『オリンピア〜ナチスの森で』を書いており、オリンピック関連では2作目だった。この1936年も新たな装丁で文庫化され、書店のエンドコーナーに立てかけられていた。
どちらにするか迷ったが、最近クリント・イーストウッドの『リチャード・ジュエル』という映画を観たので、アトランタ五輪に関する方に決めた。
ナチスとオリンピックは多方面で書かれているし、その言わんとすることは分かる気がしたからだ。

この『オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉』はまだほんの数十ページしか読んでいないが既にヤバい感じがしている。
最高に面白そう(笑)
沢木氏は本当にうまいし、よく取材するし、深く抉る。
『テロルの決算』を読んでそう思った。
しつこいんだけど爽やか、という類まれな感性の持ち主だと思う。
構成もうまい。

と、そんなときに大坂なおみさんの記者会見ボイコット宣言があり、その後の言説の顛末を見ていて何かを書きたくなった。
大坂さんという人を自分はよく知らない。
だからそれについてはどうこうはないのだけど、これは既存のシステムに対する反逆であると思うし、肥大化したショー・ビジネスに対する強烈な抵抗だと思った。
それはまさにコロナによって表面化された”汚れたオリンピック”とも通じることだと思う。

沢木氏がなぜアトランタ五輪を取材したのか、それはショービジネスがオリンピック精神とやらを完全に破壊した大会であったからだ。
それは”何のために行うのか”という理念よりも”利権と経済”がある定点を超えた象徴でもあった。

スポーツであろうと文芸であろうと等しく『プロ』の世界には、暗黙の了解があり、それは当事者とは別の組織が、より多くのお金を産み出すという資本主義精神の下に考え出したカラクリと切り離すことはできない。
そのカラクリが人々を熱狂させ、幸せにしていた時代はそれでよかったし、その時代であれば大坂なおみさんは大バッシングだったろう。
ところが、現代は少し様子が違う。

何故か。

簡単に言うと、その”ショー”に大衆が飽きていたからだ。

インターネットによって世界は”ひとつ”になった。
そうして評論家の多くが不必要になった。
人々が望むのはもうお決りの”ショー”ではなく、リアリティになっている。
YouTubeが盛んなのは、まだその”リアリティ”が残されているからだ。
しかし、それも遅かれ早かれ虚飾に彩られていくし、つまらなくなっていくだろう。

人々は熱狂したいのに、熱狂するための”本質”に触れる機会は『スマホ脳』によって阻害されているのだ。

”本質”はサブスクの彼方からはやってこない。

実存的経験からしかない。

それは私がなぜプログレッシブロックを好むかにも関係している。
実験は結果よりも挑戦が尊いからだ。

人々が本当に渇望することに対して束の間の快楽を提供するのがサブスクコンテンツだ。
そして彼らは決して満足できないから次から次へと求め続ける。
沼にはまる。

それは全て計算されて提供されていることがおぞましい。
『スマホ脳』に書かれているが、かのスティーブ・ジョブズは子供にiPadを与えなかった。
それが全てだろう。

『オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉』の序章では沢木氏が、かつて訪れたことのあるギリシャのオリンピアの地に再び降り立つところから始まる。
『深夜特急』を彷彿とさせる。
とてもリアルで、何だか懐かしい感じだ。

スマホのない世界の旅とは、こんなにも発見に満ちていたんだと思える。
私はスマホを捨てたいけども仕事柄そうもいかない。

だから、その接触時間をいくらかでも減らしたいと、この2冊を読んで思った(2冊目はまだ序盤だけど)

スマホが悪いわけではない。

しかし、そこに仕組まれた多くのトラップは、やはりリテラシーの低い未成年には悪影響の方が大きいと思える。

もちろん、すべての世代にも、リテラシーによっては大分悪影響が出てくると思える。
性的な部分で言えばかなりひどいだろう。

それでも幼児や小中学生というあらゆる感性の発達時期に、ここに触れることは人文的な意味での危機はあると感じる。
しかし、100年後にそう言えるかというと自信はない。
それは今の価値観で、人間的、という意味を定義しているからだ。
笑い話になればいいが、そうではない悲劇的な結末が待っているかもしれない。

それは神のみぞ知る…

だから、そう、常に勉強し続けるしかないってこと!