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『新聞記者(Netflix)』『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』

2019年公開の劇場版『新聞記者』(第43回日本アカデミー賞作品賞他受賞)とは別に、Netflixで全6話の『新聞記者』が制作され、今年公開されました。
映画の尺では描き切れなかった部分をしっかり入れ込み、フィクションとしての人間関係をエンタメとしてうまく表現できていたと思います。
奨学金を受け取る苦学生男女(新聞配達のバイトをしている)の就活事情、改ざん事件の発端となった”忖度”をした若手官僚の葛藤、自死した財務局職員が慕っていた上司の葛藤、いい意味でも悪い意味でも目立つ主人公記者のエートス、夫の無念を晴らすために表へ出ることを決めた妻と遺族たち、どれもよく描けていると思います。
そのすべてに共通するのは”組織”という厚く、重たい壁の存在と、それを構築する日本的空気を読む社会の愚かさです。

自死した職員は、いったい”誰”に殺されたのか。
そしてそういった死を防ぐには、この国はどうなるべきなのか、というテーマもよく描けていたと思います。

しかし、私にはやはり物足りない。
作品に協力している企業として、当然ながら主人公のモデルとなった記者、望月氏が所属する東京新聞があります。
映画版ではほぼ描かれなかった、新聞をはじめとしたマスメディアへの批判は、ドラマでは少しだけあったと思います。
しかし、そこが皮肉にも”組織”の限界なのだと思います。
それはかの事件を巡って炙り出されたこの国の膿を、より広く多くの人に知ってもらうことがテーマであり、そこにメディア自身の問題を入れると主軸がボヤけてしまうからかもしれません。

そもそも、それについては同じプロデューサーによって制作された、森達也監督のドキュメンタリー映画、『「i-新聞記者ドキュメント-」』があります。日本のマスメディアの問題はここでしっかり描かれています。
これはドキュメンタリーですから、望月氏そのものに密着していますので、フィクションの方とは分けた方がいいでしょう。

ドラマでは黒幕を暴いて成敗する、という勧善懲悪ではありません。
登場人物がそれぞれの環境(組織)で、何に縛られているのか、そしてそれは抗うことが可能なのか、それを行えるとした場合のタイミングはいつがベストだったのか、などを考えさせるラストになっています。

なぜ、高い志を持って入管した優秀な官僚が、組織の中で思考停止に陥ってしまうのか。
それについては、最近観た映画に面白いものがありました。
それが『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』です。
まず、日本語タイトルがひどすぎですね。
現代は『Experimenter(実験者)』です。

そこには60年代にミルグラム博士の行った『服従実験』とそれを巡る社会の批判などが、博士の回想という演出で進行していきます。
ハンナ・アーレントの『悪の凡庸さ』にも関係するためにアイヒマンの文字が邦題に含まれていますし、実際の裁判映像も出てきます。

服従の実験内容は、二人の被験者を生徒と先生役に分け、先生が生徒に質問を出し、生徒が回答を間違えた場合、電流が流れるスイッチを先生が押す、という単純なものです。
部屋は別れており、先生から生徒は見えませんが、声は聞こえます。
そしてこの生徒役は実験側の仕込です。そして軽い心臓病だという設定です。

電流ははじめ微量の15Vから始め、マックス450Vまであります。
テストとして、始めに先生役に微電流を流して痛みを知ってもらいます。

実験前は450Vまで押し続ける人はほとんどいない、という推論でしたが、蓋を開けてみれば60%超が押しました。
もちろん、それぞれは意見を言ったり、葛藤しながらですが、それでも実験の監督官の言うことに逆らえずに最後までしてしまいます。
なお、被験者は人類のためになる実験のボランティアということで来てくれた人です。

こんな緩い環境でもやめることが出来ないという驚くべき結果に、世間は驚いたようです。
また、非人道的な実験だ、ということでバッシングも多く、その後は行われなかったようです。

詳細は映画もいいですが、実験についてはこちらで詳しく書かれていますので是非読んでみてください。

少し抜粋します。

『服従実験で数百人の被験者を見てきたが、そこでの服従の水準は心穏やかならぬほど高いものだった。いやになるほど常に、善良な人々は権威の欲求に屈して、冷酷かつ激烈な行為を実施するのが観察されたのである。
日常生活では責任あるまっとうな人々が、権威の仕掛けにとらわれ、知覚を操作されて、実験者による状況定義を無批判に受け入れることにより、残酷な行動を実行するようにし向けられてしまった。『服従の心理』 (スタンレー・ミルグラム 著 河出書房新社)p168』

『新聞記者』のモデルとなった事件はご存じの通り『森友学園』の問題です。
発端は適正価格の1/10という破格の価格で国有地を払い下げた案件の記録に、当時の首相安倍晋三氏の夫人の名前があったことです。
疑惑を指摘された晋三氏は、国会で関与を否定し、もしそれが本当であれば議員辞職をすると答弁しました。
ここがターニングポイントです。
事件自体はそこまで大したことはないですし、夫人が名前を貸していたことも野党の攻めの材料にはされますが国家の大罪でもありません。しかし、総理が議員辞職まで言葉にしてしまったことで、一気に状況が変わります。

公文書の改ざん

これは国家公務員にとって、それこそ死に値するくらいの背任行為でしょう。
それを実際に作業をした赤木さんが、結果自死をされました。
改ざんの指示はどこから来たのか、作品でも彼の妻が知りたかったことです。
それは結局官邸から出されていたとされますが、理財局長の証人喚問と彼の失職によって逃げ切りを図りました。

トカゲのしっぽ切りはどの組織でもあるでしょうが、森友学園を巡る一連の出来事は、安倍政権下における日本がどれだけ権威主義の下に独善的な運営がなされており、官邸の権力集中が顕著で独裁的であったかが分かる事件です。
先に書いた通り、払い下げ事件そのものは大したものではありませんでしたが、その後の隠蔽と改ざん事件が、この日本社会がいかに未成熟であるかを炙り出しました。

ところで、重要な政治マターのスクープは新聞よりも週刊誌で出されることが多いのはなぜでしょうか。
そこに日本のジャーナリズム、そしてメディアと権力の関係、メディアの垂直統合問題を孕んでいます。
ドラマ版『新聞記者』でも、メディアのトップを呼んで会食するシーンがありました。

記者会見で望月氏が官房長官に食らいつくシーンが話題にもなりましたが、あれを冷笑的に批判する人が多かったように思います。
著名な批評家や文化人も。
しかし、あの態度が本来のジャーナリズムに求められていることで、はぐらかす回答か質問に全く答えない権力者に対して当然のことをしているだけです。
それを冷笑的に見る文化が、国民がジャーナリズムの重要性を理解していないことになります。
メディアと権力の癒着によってその当然のことが出来ていないのは他の記者たちです。
その中で戦うことはとても困難だと思います。
味方になってほしい国民が、権力の犬となり、内調の情報操作によってうまく懐柔されてしまっているのが現状でしょう。

かつて民主党が政権を獲ったときに開放したフリーランス記者の参加も、今はかなりの条件や制限がかかっています。
それでも野党もまた同じくマスメディアを敵に回せないという理由から、この件を真剣に扱いません。
記者会見をまっとうな記者会見の場にし、批判を受け止める姿勢が見られません。
これでは政権交代しても、臭い物に蓋をするのは継続されそうです。
リベラルを掲げている以上、現政権よりはマシになる程度かと思いますが、根本的には希望が持てません。

それを誰が作るのか、というと、このドラマで描かれていたように、結局は各人の『気づき』とそれに伴う行動しかないのでしょう。
でもそれこそが本来の市民革命ですから、やはり日本はそれをどこかで行わないと、本当の意味での近代を経験として記録することはできないのだろうと思います。

それはトヨタ自動車の失墜が誰に目にもわかるくらいに経済が衰退したとき、初めて目が覚めるのかもしれません。
日本的忖度組織では、この時代でイノベーションはもはや起こせないでしょう。
没落前に立て直せるのか、没落まで行くのかは分かりませんが、あえて希望を言えるとしたら、

気づいた日本人は凄い

だと思います。
かつての明治維新と戦後の変わり身の早さは世界のどこにもまねできないでしょう。
問題はいつ気づくか、でしょう。

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