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モーリタニアン 黒塗りの記録(映画の感想)

グアンタナモ収容所に収監されたモーリタニア人の手記を基にした作品。(2021年公開)
ジョディ・フォスターとベネディクト・カンバーバッチが共演というのも興味をそそられます。

グアンタナモについては実体が大分明るみに出ていると思いますが、いまだ閉鎖されていない現状をどう考えるかもこの作品の一つのテーマなのかもしれません。
社会問題を扱った作品についての私の注目点は、その問題が日本ではどう理解されているかを考えることなので、こちらもその視点で感想を書きたいと思います。

この作品の主題は、近代法治国家として『グアンタナモ』の存在は有りか、が一つの焦点になっていると思います。
9.11という未曽有の惨劇に遭遇したアメリカが『グアンタナモ』を生み出してしまいましたが、それは『平和』のために必要なことと言えるのか。
グアンタナモで行われていたことについては周知のこととして書きませんが、こういったスケールの大きな問題を扱った作品で思うことは、「腐ってもアメリカ」だな、というところです。

『黒塗りの記録』という副題が付いていますが、それは元の文書が残っていることを意味します。
機密文書はどの国でもあるでしょうが、この公文書が存在すること自体がまず重要です。
それを任意で記録しない、残さない(破棄する)、ということが平然とできる国は近代国家とは言えませんし、日本はそういう意味でもやはり近代国家ではないのだと思います。

システムとは、ある部分をいくら精巧に真似をしても、全体を通してみれば必ず矛盾が生じます。
人権や情報公開などは近代にとってとても重要な概念で、切り離せないものです。
といっても常に権力者なんて政治だろうがビジネスだろうが同じで、悪い奴はそれをしようとするじゃないか、という意見が出てきそうです。
当然ですがそういう誘惑に駆られてしまうのが人間で、それがゆえに酷い歴史を刻んできました。
そうして権力をリヴァイアサンに例え、市民が隷属しないために権利と監視が必要だと至ったはずです。
そのためには正しい情報が市民に与えられるべきと考えられ、当然公文書は必要となり、機密文書も関係者への影響が無くなる時期に公開されることが原則となったはずです。
そしてそれらを担うのがジャーナリズムであり、それが機能することで抑止力となるのです。

映画に話を戻します。
ジョディ・フォスター扮する弁護士は、収容者が有罪か無罪かよりも人権的観点からその扱い方に対して問題を提起しています。
グアンタナモは9.11のトラウマを抱えた市民によって、それも止む無し、という雰囲気も作ってしまっていたのではないでしょうか。
確かにあの惨劇は衝撃的で、報復戦争も当然のごとく支持され、あまりに単純な正義と悪の構図が出来上がってしまっていました。
しかし、今のウクライナ問題もそうですが、事はそんな単純ではなく、遡れば欧米が帝国主義によって世界を蹂躙した結果二度の世界大戦が起こり、その後の中東の火種も作ってしまったことを無視するわけには本当はいかないはずです。
しかし、国民もジャーナリズムもあの衝撃によってイスラム自体を悪とする方向へ傾いてしまっていました。

この映画の主人公、モーリタニア人のスラヒは酷い拷問に一度は自白調書にサインしてしまいますが、その後は諦めずに抵抗を続け、結果15年弱もの歳月を経て自由を手にしました。

グアンタナモが人権無視の状態い置かれていることが明るみに出ても、やはりまだそこに閉じ込めておこうとする人たちと、それを人権的な立場から助けようとする人たちがいます。
彼らを助けようとする側は、バッシングを受けたり、キャリアを失ったりと、かなりの覚悟が必要になります。
それでもそれをしようとする人が必ずいるのがアメリカで、それがこういったノンフィクション系の作品を観て常々思うことです。

悪も正義もスケールが違うんですよね。
でもそうすべきと思う人が希望を捨てずに立ち上がれるのは、やはり情報公開の大切さを国民が理解しているからだと思います。
それがあるから、記録を残さないことは考えられないし、機密としてでも真実は残されていると信じることで希望が持てます。
その黒塗りを剥がせるかが弁護士なりの腕の見せ所なんでしょう。
そしてそれを暴露した後の国民が味方になってくれると信じることができる、それがあるから出来るんだと思います。

翻って日本はどうでしょうか。
取り調べの完全可視化も達成できないにも関わらず、いまだに自白偏重主義で、かつ代用監獄と言われるような容疑者の長期間拘束がまかり通っています。
そして検察と司法の関係性が親密で、信じられない有罪率を誇ります。
一民族国家なので確かに犯罪数は諸外国に比べると少ないだろうと思いますし、時に信じられないような凶悪事件も起こりますが、多いとは言えないと思います。
地続きの多民族国家に比べ、平和であるのは確かです。
しかし公文書と機密情報の公開手段など曖昧なところが多く、ジャーナリズムも権威、利権主義で閉鎖的で育っていないため、仮面の平和に過ぎず、もし自分が冤罪に巻き込まれようものならとても悲惨なことになるのは想像に難くありません。
それでも臭い物に蓋をする習性があり、声に出して問題を指摘できないことが多いのが実情です。
しかしそれは残念ながら、あまり責められないとも思います。
やはり、まずは情報公開とジャーナリズムの利権からの独立が無い限り、日本で声を上げる、抵抗することはかなり絶望的なんだと思います。
もちろんそれでも頑張っている弁護士や活動家はいます。
非情に厳しい戦いだと思いますし、彼らを尊敬します。

グアンタナモレベルでも、結果的に情報公開がされるアメリカとは、やはりスケールが違います。
どちらの国がいいのか、という単純な比較はできませんが、どっちの方が人間的に幸せを感じて人生を送れるかを考えると、人権を重視した社会にあると私は思います。
だから人間は強大な権力(暴力)の誘惑に、いとも簡単に負けてしまうのだということを常に意識し、政治を選択していかなければならないと思います。
権威にすがる方が楽でお金もたくさん稼げるかもしれませんが、それでいいのでしょうかね。

日本には『近代のやり直し』が必要だと思います。
色々と変えなければならないとしても、順番として情報公開に関する法整備を行ってもらうことが、ここ10数年私が政治に望むことです。
この国が復活するには、振り出しに戻ってしっかり近代の基礎から作っていく必要があると思います。
そうしないと、『お金はあっても幸福を感じられない国』から『お金もなくなり絶望しかない国』になってしまうように思います。
せめて、『お金がなくても幸福を感じられる国』になって欲しい。
それはイコール共産主義ではありません。
随分前にそれは挫折している歴史がありますから。
理想は素晴らしくても人間的にそれを維持できないという宿命があります。
ということで、別の道を模索するしかないと思います。


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