人生を楽勝にする普遍的なテキストはない。いっこも。

普通に会社行ってみんなと同じように働けないけど、家にいて十分な収入を得れるかというとぜんぜんです。そうなると「わたしゃダメ人間だ」とまず自分がめちゃくちゃ自分を責めます。実のところ世間体よりもこちらの方が辛らつに厳しく責めてきます。

会社にも行かないで自分の楽なように生きるという時、担保がいります。それは才能だったり知性だったり、はたまた親の残した財だったり色々でしょうが、私のようにそんな担保の一つも持ち合わせていない人もいます。

何も持っていないけれど、したくないことは単にしたくないというだけじゃなく、できない。それじゃダメなのかな?ダメだろう。

「みんな嫌なことでも我慢してやってるのになぜおまえは本当にできないんだ」

と責められたこともあります。確かにみんな我慢してるんだろうな、すごいなとも思って、自分が情けなく、申し訳なく思います。でも、我慢したらできるのがうらやましい。我慢してできたらいいじゃんと思って私も我慢したけど、我慢しても我慢しても私にはできなかったから。

もしできるなら満員電車に乗ったり、たくさんの人と関わったりして毎日働きたい。そうできたならそれが楽だったと思う。でもできないから。

「甘い」とか「ずるい」とか「社会のゴミ」とか自分だけじゃなく、厳しい兄にもさんざん言われました。ダメだダメだと思って出社前にきついお酒を一気飲みして、そうやって少し自分を無くして必死で毎日通いました。そうでもしないととてもじゃないけどできなかったから。それなのに、それでもやっぱり無理で。心身共にボロボロになってしまうんだけど、本当に私の我慢とみなさんの我慢はいっしょですか?

色んな人が色んな事を言う。私のような人でも起業して成功したとか、自分の特性を生かして生きれるとか、ほんとに有益なことをたくさん教えてくれます。でも、それは一つも私には活かせません。私どころか誰にも活かされない。そういった人たちのテキストはただただ素敵な物語で、私は美しく偏ったその人生のフォルムを見るだけ。夢中になって読んで夢を見る。

誰かのテキストをそのまま生きるなんてことは誰にもできない。普遍的なテキストなんて一つもないから勘違いしてはいけない。勘違いしちゃうと、マッチ売りの少女がなけなしのマッチをすって見るやつになってしまう。

でもこれは悲しいお報せでもありません。当たり前の道理であるだけで、特に動揺する案件でもないから。それに数々の美しいテキストが示してくれている事実には普遍性もあるから、特にがっかりする必要もありません。

たくさんのテキストがあるってこと。

美しくいびつに偏ったたくさんのテキストがあるってことが普遍的事実。

私は私のテキストが書けるということをそこから知りました。何も持たずたどたどしくあがきながらやっと息をしている様を、私はここに書いていきたいと思います。

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