激動の時代の夢について 後

 前の記事で夢を見た話をした。ずいぶんと奇妙な夢で起きたときはなんだかショックだった。なんせ、夢の中とはいえ目の前で人が死んだのだから。それを「まぁ夢の中の話だし」と考えられればそれでよかったのだが、夢の中でショックを受けて身体の自由が利かない体験までしてしまった。これでは夢のくせにあまりにリアルだ。割り切るにはメッセージ性が強すぎる。

 僕は大学3年の頃にひとりでスペイン・バルセロナへ行った。この時の体験が夢に現れたのだと思う。大学生の僕にとってひとりでこんなに遠くまで行くというのはなかなか勇気のいることだったし、それは決断だった。もしかしたら生きている間にひとりで行く一番遠い場所になるかもしれない。
 そこまでの決断をして行った先で何をしたか。卒論の研究だ。カタルーニャの闘牛の在り方について情報を集めた。それは異国の地で政治的なカルチャーに触れることに他ならなかったし、価値観を揺さぶられる出来事だった。このことついて今のところ話す気はない。少なくともここでは。

 最近の世間の関心事といえば、やはりウクライナ侵攻である。大国が戦争を仕掛け、人が死に人が殺され人が死に。世界が混乱している。何も戦争が起こっているのはウクライナだけではなく世界中で人が殺されている。そういう意見も見かける。「日常的な死」というものが世界には存在して、それが近づいてきている。そう感じる。

バルセロナ。デモ隊。日常的な死。これらが合わさって村上龍の小説のような夢を見せた。Googleで「人が死ぬ 夢 暗示」と調べた。似たようなサイトがたくさん出てきて、多くのサイトには人が死ぬ夢は吉夢で大きな転機の訪れ、物事が好転することを示唆していると書かれていた。ではこの場合、僕はどのような転機を迎えているのか。夢へ向かうということだ。

 僕は一年前、就活に失敗し、とりあえず安定している大企業に入社した。しかし、職務の内容はこれを一生続けようと思えるようなものではなく、いつか転職しなければならないと考えていた。ではいつかはいつなのか。今しかない。決意としての「今しかない」ではなく、現実的に、パートナーも地位もない、つまり守るものが何もない、今しかないと考えた。僕は特別勇気がある人間じゃないからきっと理由があれば保守的な行動をとると思う。言い訳の利かない今しかないんだ。

 この決断が夢として現れたのならこれはきっとうまくいくということだ。この決断が鈍らないうちに準備を進める。将来を見据えて人生史のターニングポイントを作る。歴史を作る。

明日は汁無しを頼もうと思う。いつもはラーメンだけど、明日は違うことに挑戦をしてみる。きっと美味しいだろう。



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