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良いものを長く着ることの難しさ

「今の若い奴はおかしな服を安く買って1、2年着てお終い。こんなのはお金をドブに捨てるのとおんなじだよ」

吉祥寺にある、とあるお店での出来事。

そのお店のドアについた窓には、内側からコートが被さっていて中がよく見えない。それが気になり敢えて中に入ってみた。

思っていたより狭かった店の奥には白髪で髭を蓄えたお爺さんが座っていた。

彼はイヤホンをしていた私に(というのも私は店員に話しかけられるのが嫌でいつもイヤホンをして服を見るのだが)お構いなく声をかけてきた。

「ここは古着屋じゃない。他のセレクトショップでは無いような商品を揃えた店だ」
「見るだけ、着るだけならタダだからまずは手に取って見る目を養うこと」

などと矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。
入る店を間違えたな、とは思ったが、確かに置いてある商品は魅力的だ。

シャツを手に取って見てみる。なかなか学生が気軽に買える値段では無い。ジャケットも、コートもニットもみんなそうだ。生憎店内には私一人で、彼はずっと話しかけてくる。

正直言って人の話には興味がないので、ほぼ聞き流していたのだが、おそらく最も言いたかったのは、「良いものを長く着続けることが大事だ」ということだろう。

その点に関しては私も全くの賛成だ。
最近の傾向としても物を大事に使うということが必要になっているのは重々承知だ。

だが、私はこれが困難であることの理由を挙げることができる。

自分の身に付けるものがアイデンティティを示す、という考えはおそらく多くの方に共感していただけるだろう。

そして若者は往々にして、自らのアイデンティティが定まっていないことが多い。むしろこれから作っていくところにいるのだ。
そんな状態にある私たち若者にとって良い物を長く持ち続けることは経済的にというより、アイデンティティの急速な固定を迫られるという意味で難しい要求である。

10年20年紺色のザックリした、クルーネックのニットを着続けるということは、その間ずっと「私はこういう服を着る人間だ」というのを変えられないことを意味する。緑のタートルネックが着たい日も、黒のハイゲージが着たい日も、変わらず紺色のニットを着なければいけない。

そんな苦痛を強いられるよりだったら、安い服をたくさん揃えて、違う自分を演じたくなるだろう。私だってそうだ。

自由に服を楽しむとは何だろう。
周りの状況に合わせて自分のアイデンティティを変え、服を変える人は自由に服を楽しんでいると言えるか。
確固たる自分というのを定め(それがあなたのなりたい自分かどうかもわからないのに)、それを表現するために同じ服をずっと着続けることは自由なのか。

良いものを長く使え、と言う時の「良いもの」とは何か。時の試練を耐えぬく、確かな美を持った物だろうか。だが、その美は人間の好みの移ろいに耐えることはできない。

ボードリヤールの言葉が頭に浮かぶ。現代の消費社会で消費されるのはモノではなく意味だ。その社会に渦巻く全てのものは記号に置き換えられ、無限に交換され続ける。人間でさえその記号の一つだ。

もはやここでは絶対的、普遍的なものは必要ではない。良いものが本当の意味で「良いもの」として消費されることはもうないのかもしれない。

衣服はこの時代にどうやって人間に「真の自分」を与えることができるのだろうか?

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