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マトリックスレザレクションズの危うさとリベラルについて

(この記事にはマトリックス三部作とレザレクションズのネタバレを含みます。三部作とレザレクションズを未視聴の方はお気をつけください。また、レザレクションズに批判的な感想になりますのでお気をつけください。)

はじめに

まず、私の立場を書いておきたい。
私はマトリックスシリーズのそこそこのファンである。リアルタイム世代ではなく、中学生の時に三部作も見てどハマりし、アニマトリックスも視聴済み。1番好きな映画を聞かれたらなんとなくマトリックスと答えることも多いぐらい好きだ。ただゲームまでは流石に手を出せていない、そのぐらいの熱量である。

そして、私がマトリックスの一番の魅力だと思うのは、マトリックス世界の設定である。中学生の私が熱中したネオの英雄物語すら、閉ざされた系の中で自動的にアップデートを行うためのシステムであると言う仕組みがたまらなく好きだった。
そして、政治的には(不真面目だが)割とリベラルである。

そんな私だが、今回のリザレクション、はっきり言ってクソつまらなかった。

こりゃネットが大変だぞ、とスマホを開くと私の参考にしている映画インフルエンサーたちは皆大絶賛。
なんとなく、彼らの評を要約するとマトリックスの設定が好きな人にはたまらないアメリカのオルタナ右翼に政治的な消費のされ方をしたことへのアンチテーゼであり、政治的に素晴らしい、といった感じだった。

確かに、私もある程度この意見には賛成である。
差別主義者がマトリックスを使ってヘイトを垂れ流したのはファンとして許し難い行為であるし、他にもハリウッドのエイジズムや男性ヒーロー至上主義からの脱却などかなり先進的で素晴らしい試みは散見された。

だが、しかし。
一方で私はこの映画、マトリックスリザレクションはいくつかの危うさを孕んでいると感じたのだ。

正直、私の感じたつまらなさは大半が脚本に起因しているのだが、それをいちいちあげてもただの悪口にしかならない上、これは人によるので、(比較的)論理立てて説明できるその危うさについて書き散らしていきたい。

botという存在

今作には全三部作には無い新要素として「bot」というものが登場する。
このbot、Twitterでよくあるあれだ。以下Wikipediaから引用

インターネットボット(英: Internet bot)は、インターネット上で自動化されたタスクを実行するアプリケーションソフトウェア。Webボットあるいは単にボットとも呼ぶ。一般に単純な繰り返しのタスクをこなし、そのようなタスクに関しては人間が手でやるよりも高速である。
ウィキペディアの執筆者,2021,「インターネットボット」『ウィキペディア日本語版』,(2022年1月11日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88&oldid=82154599).

つまり、スミスのような自律思考プログラム(A I)とは違い、意志を持たず与えられた命令に従う存在らしい。
勘違いしている人もいるが、人間がbotになるのではなく、人間とbotがあの世界で(時に家族として)共存しているという設定だ。これは、自分で思考する力を持たない存在として描かれており、明らかに、インターネットに扇動され恐ろしい行動を起こしたオルタナ右翼、また支配者層に搾取され続ける大衆を皮肉っている。

そしてこのbotが関係する序盤の印象的なシーンがある。
そう、東京の新幹線のシーンだ。
マスクをつけた日本人の集団を見て、始め、躊躇うネオに、バッグスがこう言う。
「大丈夫、全員botよ」
次の瞬間bot相手に無双する印象的なシーンだ。

私はこのシーン、とても恐ろしいと感じた。
先ほど書いたようにbot=無知蒙昧な人間のメタファーであるため、つまるところこのシーンでは自分と違ってまだ目覚めていないヤツらは殺してもいい!というメッセージになってしまう。

仮に、映画内だけの理屈でも(botとは意志の有無という差があるものの)例えプログラムであっても人間と友好関係を築く可能性が描かれており、マトリックス内のさらにゲームのcpuである新モーフィアスすら自律意志を獲得し仲間になっている。つまり、プログラムだからといって殺していいってもんじゃないのだ。

勘違いしないでほしいが、私は敵を倒すな、と言っているのではない、倒すのにbotであることを理由にするな、と言っているのだ。

自由意志の有無、目覚めたかどうかの違いによって存在の価値に差をつけることは危険極まりない。
そもそも、これは裏返しにしただけでオルタナ右翼の主張そのものである。
あいつらは人間じゃ無い、こんな態度は現代人としてはあってはならないはずだ。仮にそれがオルタナ右翼であっても。

また、このシーンにはもう一つどデカい問題がある
日本人のマスク社会を揶揄している点だ。
同じマトリックス世界、しかも同じbotであるのに日本に住むbotだけが皆一様にマスクをつけており、それが不気味さを際立たせている。
まず、このご時世に命を守るマスクをこんな扱いで描くこと自体、おかしい。はっきりいってコロナは風邪系のネットに扇動された人(つまりオルタナ右翼の亜種みたいなもん)だと勘違いされても仕方ない演出である。
そして最大の問題が他国の風習を切り取り、異常さを際立たせて描いてしまっている点だ。
日本はコロナ以前からマスク利用者が多く、それは国内会社でも度々批判的な文脈で取り上げられてきた。しかし、マスクをするのは様々な理由がある。風邪やインフルエンザの予防であったり、時に自分の顔を隠し、自分を守ってくれる存在でもある。
決して同調圧力でマスクをつけているわけではないのだ。
私は日本に権力に対して疑いを持つ人があまりにも少ない、と言うことは同感である。その点、今作のbotのような皮肉は日本に於いては特に効果的で有効であると思う。しかしながら、日本人型Botの特徴としてマスクを選んだことは許せない。
またそれをこのように描くことははっきりいって差別では無いだろうか。異国の風習を嗤うことは欧米がかつて犯した過ちと全く同じ構造であり、現代リベラルが行っていい解釈では無い。
私は日本に帰属意識があるわけでないが、単純にマスク文化に距離が近しい者として、日本人でこの描写に対して怒る人が極めて少ないことを許せない。
同時に、このような配慮に欠けた視線を取り入れた本作、並びに監督の姿勢も全く褒められたものでは無いと思う。
これを無視して監督の政治的配慮が素晴らしい、と褒めてしまうことも私には配慮の欠けた姿勢だと感じる。

「マトリックス世界」とリベラルについて

今作のラストシーンでネオとトリニティはアナリストに希望者のマトリックスからの解放を約束させ、二人で理想の世界を作ろうとする。
つまり、今作のテーマは目覚めてマトリックスの支配から解放されよ!というものになっている。
また、同じようにオルタナ右翼もマトリックスを支配から目覚め、抵抗する物語として定義している。

しかし、マトリックスってそんな話だったろうか?
過去三作の私の認識している筋はこうだ。
99%ぐらいの人間が満足している何も考えずに生きられるマトリックスだが、時にはそれを望まないものもいる。彼らは支配に抵抗するが、実は彼らのデータを取ることがコンピュータの目的であり、抵抗の中心になった救世主もそのシステムの一つだった。こうして、マトリックスは愛を知り、前よりも少し良い世界になったとさ。めでたしめでたし。

ここで、この物語を現代の寓話として読み替えてみる。
マトリックスはディストピアのような平和である代わりに支配された(現代)社会、99%の何も考えない人たちは体制派(保守派)、ネオ達目覚めたものは支配に抵抗するリベラル
つまりこう言う話だ。

権力を疑い支配社会に異を唱えるリベラルたちの視点が、結果的に社会に還元され、体制派の人間もその恩恵を受ける

これってめちゃくちゃ現代的な結論ではないだろうか?
奇しくも人類の歩みとも符合している。
昔あるリベラルが思いついた人権は私たちの当たり前の人生を保障しているし、様々なマイノリティが勝ち取った権利は私達の社会を寛容で以前よりもマシなものにしてくれている。

つまり、マトリックスは目覚める物語ではなく、目覚めた人のような違う視点を持った他者を大切にしようと言う物語だったはずだ。

だからこそマトリックスをアイコンにしたオルタナ右翼は完全に間違っているのであり、彼らのように対立を深めることは的外れなのである。

しかし、本作は前作の結論を否定し殊更に目覚めない人やbotとの違いが強調される。
これは完全にオルタナ右翼サイドの裏返しの思想である。
つまり、自分でも変なことを言っていると思うが、監督自体がマトリックスのことをわかっていないと言うことになっちゃうのだ!

そして、ラスト二人は理想の世界を作ろうとする。
しかし、かつてコンピュータが何不自由ない世界を作った時人間の側がそれを拒否したはずだ。彼らは同じ過ちを繰り返すことになり、前作ファンとしては全く受け入れ難い結論になった。

終わりに

私がここまで書いたきっかけは、ある批評家がこの映画を何が違う、と感じた人はそもそも前シリーズも好きじゃないんじゃないの…?と言ったことだ。
いや、俺マトリックス好きだって!ってことでこんな長文を書いてしまった。
自戒として、例えある映画の感想が違ったとしてもその感想を持った人が敵対したという訳ではないのだ、と言うことを意識したい。重要なのは違いを認めること。
私も自分の理屈が完全に正しいとは思わないし、実際上に書いた文章も多くの間違いがあることだろうと思う。
だからこの映画を好きな人の意見も是非聞いてみたい。それが私にない視点を齎し、きっとさらに良い映画体験にしてくれることを祈念し筆を置く。

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