白を塗る

イジン伝~桃太朗の場合~まとめ(XV~XXI)

 バッハ、シューベルト、ベートーヴェン、シューマン、……。豊かな巻毛と不敵な笑み、知的な印象を漂わせる目の落ち着きで、彼らはここに訪れる者を温かく出迎える。柔らかな感触の防音床も心地よい。
 史上最も有名な音楽家たちが揃い踏みするこの空間は、数ある教室の中で最も自由な場所である。それは綿密な音楽理論を駆使し、経験と直感で数々の楽曲を想像してきた天才たちのお膝元ですら、縛られない音の存在を感じられるからだ。生徒の奏でる混沌とした音の重なりをバッハは笑って許し、誰かがふと漏らす溜息もリズムの曖昧なすすり泣きも世界に対する嘲笑も、音楽家たちはすべて受け入れる。音は世界を等しく震わせる。
 左端から二十四番目の白鍵を叩き繰り返し基本のドを響かせ、朗はその音を吸い込むように聞いていた。そうしているうちに彼の心は静かに平らに整っていく。同じ音に感覚を沿わせていくと、その響きが乱れていた彼の中の音を一定なところへと導いてくれるのであった。
「君は将来音楽家にでもなりたいのかな」
 硬いピアノ椅子の背もたれに体重を預けドの音に聞き入っていた朗は、音もなく傍までやってきていたその人物に驚き掌で鍵盤を叩いてしまった。不協和音がだーんと鳴ってすぐに壁の中に吸い込まれる。白衣を着たその人物は口元を柔らかく使って微笑んで「どうやらそうではないみたいだね」と言った。
「ハカ……、すみません。鬼怒井先生、どうしてここに」
「ハカセで構わないよ。私は先生である前に一介の研究者だからね」
 鬼怒井が朗と目線を合わせるようにしゃがむとティーツリーの香りがした。少し野性的なその匂いはいつも白衣で静かに笑んでいる彼女にはもっとぴったりな香水があるように思われたが、不思議と彼女の魅力を引き出していた。朗は鬼怒井と目を合わせないように鍵盤の上に置かれた自分の手を見つめたまま、少し躊躇ってから聞いた。その爪はそろそろ切らなければならない長さまで伸びていた。
「ハカセ、はどうしてここにいらっしゃるのですか。今は体育館にいる時間では」
 鬼怒井は朗が自分を見る気がないのを察すると立ち上がって彼の後ろに回りそっとその肩に手を置いた。
「保護者よりも生徒のほうが大切だよ」
 朗は鬼怒井の手の冷たさにぞっとして、目だけ自分の肩に走らせる。彼女はほとんどメイクをしないが、指の赤いマニキュアだけは一際鮮やかで艶めいている。「それは、ありがとうございます」
 鬼怒井は固くなった朗を見てふふと笑った。白衣が揺れて肩から手が外れた。
「嘘さ。本当はさっき説明会は終わったんだ。で、校長室に戻ってくると途中で女生徒が取り乱しているじゃないか。どうしたのかと問うと彼女は犬村と名乗って私に助けを求めてきた。『桃太くんがいなくなってしまった』と。思わず悲鳴を上げて注目を浴びてしまったけれど自分が桃太くんを探していることはなるべく知られたくないのだと言って私を頼ってきた、ということだ」
「僕がここにいることはどうしてわかったのでしょう」
 鬼怒井は出口に歩み寄りながら肩をすくめ向こうを向いたまま言った。「なんとなく、さ」「なんとなくって」
 部屋を出る間際納得いかない様子の朗を振り返り、鬼怒井は人差し指を立て優しく咎めた。
「しかし君、あんないたずらをしてはいけないよ。まあ引っかかった彼女も彼女だがね。それだけ彼女は君に心を砕いているということかもしれない。準備室には主たる部屋に入るドアがあることを失念するなんて。まさか窓から飛び降りたなんてよほど動揺してなければ考えやしない」
 鬼怒井が音楽室を出ていってからもしばらくティーツリーの匂いは朗にまとわりついていた。まるでまだそこに彼女がいでもするかのように。
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 猿野は耳をそばだて、ゆっくりと近づいていった。木地川は彼の隣に寄り添って囁く。
「猿野くんの話、感動しちゃったよ。僕、前々から桃太くんは近づきづらい感じがしてたんだ。でも、本当のお父さんとお母さんのことを知らないんだもの、大人っぽく見えるのは当たり前かもしれないってさっき思って」
 男女の声は男子トイレの中から聞こえるようだ。何か見てはいけないものをこれから見るという興奮で猿野の指は震えていた。壁沿いに抜き足差し足、ゆっくり横戸に耳をつけ盗み聞きの態勢に入る。
「でさ、僕、桃太くんと友達になりたいって思ったんだ。可哀想だと思ったっていうと恩着せがましいんだけど、なんか今まで桃太くんに偏見持ってたなあって後悔したからさ。なんとなく僕と彼、気が合うような予感がするんだよ」
 猿野は中から聞こえてくる声のトーンが世間話をする時と変わらない日常的なものであることに失望した。「つまんね。帰るか」
 戻ろうとする彼を引き止めて木地川は諭すように言う。
「待ってよ猿野くん。君も一緒に桃太くんの友達になろうよ。きっと猿野くんも彼と気が合うと思うんだ。僕ら考え方は違うけど、感じ方は似ている、きっとそう」「お前何言ってんだ、ここにいるのは」
 猿野が木地川の手を振り払おうとした時、にわかにトイレの声が大きくなった。
「もうだめなのよ。十五年の期限はすぐそこまで迫ってる。気がつかないうちに失神していることも多くなっていて、その度にわけも分からず口から出てた血を拭き取るの。最近はそれにも慣れた」
「だからって諦めるなんて俺は賛成できない。あいつらだけが特別なんて誰が決めた。……そうか、あの人か。わかった、俺があの人を説得してくる」
 男が出てくる気配を察して猿野は慌てて戸から離れた。木地川を蹴り飛ばすようにして体育館入口でたむろっている生徒を装う。男は二人に気づいた様子もなく教室棟の方へずんずんと歩いていってしまった。がっしりした体格の中年の男だった。
 驚いたのは木地川である。猿野が口を塞ぐのも間に合わず彼はよく通るテノールで落胆を表す。「なんだ桃太くんじゃないのか」
 昇降口前まで進んでいた男はびくりと肩を震わせ踵を返してやってくる。男の手入れされた髭面は怒っているようにも途方に暮れているようにも見えた。逃げようにも後ろは体育館、左右は水飲み場とトイレ。シンク上の鏡に猿野は体のあちこちをさすりながら忙しなく足踏みする自分を見る。鏡面に血の気が引いた木地川の怯えた顔、同じくらい白く変じた男の太い腕が木地川の胸元を掴み揺さぶる。二人の質の違う、問うような視線を避けて猿野は二人に背を向ける。
「桃太だと。そいつはどこにいる」「分かりません。僕らも探しているんです」
 男の声が高まり廊下に響く。「おい、お願いだから教えてくれ」
「桃太っていうのはあの人の特別だと聞いている。俺はどうしてもあの人に会わなきゃならないんだ。そうしないと、もうすぐあいつは死んじまう」
 揺さぶる腕がさらに激しさを増して木地川はか細い声で猿野に助けを求める。猿野はじっと床を睨んで自分を見返す瞳孔の開いた少年の顔に集中した。リノリウムにぼんやり映った彼自身の顔だ。乳白色の薄汚れた床に彼の目がらんらんと光っている。よく見るようにしてゆっくり彼は屈んでいってついに膝を胸に抱いてしまう。「答えてくれ」と繰り返す男の必死な声も「助けて」と繰り返す木地川の小さな叫びも気にならなくなっていく。自分だけ、自分だけ、自分だけ、自分だけ……!
「ちょっと。あなた何してるの」
 自分の方へ向かってくる気配にぎょっとして猿野が振り返りざま退く。自分の母親より幾分若い、男と同年代の女が猿野の傍を通り過ぎて木地川と男の間に割って入った。床よりなお白く光を吸い込んで内側から光るような女の腕が男の肘辺りを掴むと暴れていた男は急に萎んだようになって木地川を放した。強い力を宿していた目は焦点を失って女から木地川、彼自身の腕をさまよった後静かに閉じられる。嗚咽をこぼす。しばらく経って涙が流れた。彼の目はそれほどに乾いていた。
 堰を切ったように泣き続ける男に寄り添って昇降口から帰る女は細い腕を彼の背中に回してゆっくりとしかししっかりとした手つきで撫でていた。背中を丸めて体を引きずるように歩いていく男と背筋を立てて凛と前を向く女とは対照的だった。男が言うようにあの女性が間もなく死んでしまうとは猿野には信じられなかった。
「命の強さと心の強さってもしかしたら別のものなのかもしれないね。生きようとして生きるのは死ぬと分かっている人ばかりだもん。猿野くんはどっち」
 木地川が乱れた制服を直しながら猿野に笑いかけた。目尻に涙の跡は残っていたがけろりとしている。「あの女の人はもうすぐ死ぬんだろうね、本当に」
 あれほど泣いていた木地川がこと死に関することは易々と語ることが納得できなくて、そしてまだ自分の手は力が入らないのが悔しくて、猿野は隣に座る彼を床映しに見た。
「お前はどうなんだよ。お前の方が俺より強いとか言うのかよ」
「弱いよ。うーんと弱い。さっきだってすごく怖かったんだ」
 いつの間にか床の反射の中で二人の目は向き合っていた。猿野が逸らそうとすると
「でも、死ぬのは分かってる。もうすぐね。なんとなくそんな気がするんだ」

 例の感染症でイベントが次々と中止になっているそうですね。4月末に一年かけて準備してきた駅伝があるのですがそれもどうなることやら。

※イジン伝~桃太朗の場合~まとめ(I-VII)はこちら

※※イジン伝~桃太朗の場合~まとめ(VIII-XIV)はこちら

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