僕はモンスター

白庭、モンスターになる~私と私ではない私と~

今週初めのことだ。Twitterにて逆佐亭裕らく氏 (@kurobuchi_310)が

「一緒に世界を救う旅をしませんか」 

というような文面でゲーム画面を貼り付け投稿していた。氏は某有名RPGで仲間にしたモンスターのニックネームを公の場で募っていたのである。元々SNSとは縁遠かった私は目を開かさせられる思いがし、某RPGのファンでもあったのですぐさま「シラニワ、如何でしょうか?」と売り込みをかけた。氏にフォローされて間もない頃で図々しいことであったと現在反省しているのだが、とはいえこれで、

白庭は、世界を救うモンスターの一員になることが出来たのである。(実のところ、本当にニックネームとして採用していただけたかはわからない。氏の「次の仲間モンスターに」という優しい言葉に希望を乗せて)

モンスターになって

(仲間に入った、という前提で)私は中世ヨーロッパ的異世界で旅をし、特色豊かな各地の街をめぐり、仲間と協力して敵と戦い、成長して強力な特技を身につけたり、時に戦闘不能で棺桶に入り、時に仲間と楽しい時間を過ごす、そんな空想に思いを馳せた。

そこで私は、かの世界で最弱モンスターのスラ○ムで、戦闘ではほとんど使い道のない役立たずだが、憎めないキャラとぷにぷにした体で懸命に強敵へタックルを仕掛ける勇気を持ったムードメーカーである。

面白いことに、私は私自身がゲームをプレイするよりも想像の翼を広げて世界に飛び込むことが出来た。「コントローラーの操作」という現実の行動が思考に介入してこないから、私たちは見ている時こそ束縛から解放されるのではないか。現在ゲームのプレイ動画に人気があるのはこういう効果も働いているかもしれない。

「私ではない私」という存在

そうして空想に耽る私に現実は否応なくのしかかってくる。仕事の時間、食事や睡眠の時間、生きるのに欠かすことの出来ない現実的行動は決して無くならないし待っていてはくれない。

この時間も逆佐亭さん(@kurobuchi_310)はゲームをしているのだろうかと少し恨めしい気持ちになった時、ふと思った。

「シラニワ」は私が働いている間にもあの異世界で旅をしているかもしれない。それはつまり「シラニワ」は私ではないということだ。

当然である。「シラニワ」は私の名前をつけられただけのモンスターで、さらに言えばゲームデータの一部で、ある形状と色で構成された光とプログラムされた行動の総体に過ぎない。彼は氏のコマンド選択によって行動し、戦闘パーティから外されれば戦いに飛び入り参加し健気なタックルを繰り出すことは不可能である。彼に選択の余地はない。

では、いったい「シラニワ」と「白庭ヨウ」とは無関係なのだろうか。

画像1

「シラニワ」は「私ではない私」であると私は思った。

「白庭ヨウ」の人格が関わった以上、「シラニワ」なるモンスターには「白庭ヨウ」に関する印象や想像の付随が避けられない。今回、この現象は「人格の関与→名前」という時間関係で生じたけれども、「名前←人格の関与」という場合もあるだろう。「マイケル」と名付けたモンスターへの印象が、マイケル少年との出会いで彼に引っ張られるというような。

そもそも「シラニワ」と「白庭ヨウ」にどれほどの違いがあるというのだろう。現在、二者には視覚刺激で認知されるという共通点しかないけれど、VR技術の進展でいずれ「シラニワ」は五感で知覚される存在になるかもしれない。その時二者を分けるのは「意志の有無」しかない。(これもAIの進化で曖昧になりうる。AIの選択を「意志」と呼ぶならば、だが)

コントロール可能な「私」、コントロール不可能な「私」

ここで私は「『私』の名前をつけられたゲームのモンスター」を例として取り上げたけれども、

同様の現象が「記憶」や「事物」、「空間」「時間」などあらゆるところで生起する、つまり「私ではない私」となりうる。

ある人の思い出に残る私、私の創った文章、私の暮らした地域、数日後に迫る私の誕生日、それら全てが私ではないけれど「私性」を帯びている。

そしてそこには二つの「私」が存在する。

コントロール可能な「私」

コントロール不可能な「私」である。

前者は一般的に考えられている「私」、自分の意志決定が出来(るかもしれない)、それが環境へダイレクトに影響を及ぼす「私」であり、

(「かもしれない」としたのは運命によって物事は既に決まっている可能性があるからで、これは前回記事で取り扱っている)

後者はそれ以外の全て。上記した「私ではない私」である。そして私が興味を抱き、可能性を見出したいのは混沌の中にある私なのだ。

無限的物語へのヒント

私が後者に可能性を見たいのは、決して「私自身には価値がないから」などという自虐的な思いからではない。そこに文字通り無限の可能性があると思うからだ。感覚ではない、論理的にそう考えられるからだ。

「私」とは人格であり、人格である以上そこには物語が生じる。

私が生きる(創る)人生はもちろん私の物語だが、誰かの「私ではない私」が生きる(創る)人生もまた私の物語といえる。

つまり、

私の(人それぞれの)物語はいくつも、大きな言葉を使うなら【無限に】形成されているのだ。

(その、人間世界で当たり前の事象が解放される物語を私は目指したい)

終わりに

昨今、「物語を生きる」というのが流行っている。【物語作家】(志望)を名乗る私としては嬉しい限りである。

ただ、今回わかったのは私たちは現実の中で物語を生きるというよりも、物語の中で現実を生きるんじゃないか、ということだ。

人間世界において無限に生じる物語の海で、進行方向を選び泳いだ結果が現実だとすれば、その可能性は無数にあると私たちは信じていいはずだ。

※この記事は逆佐亭裕らくさん(@kurobuchi_310)のおかげで書くことが出来ました。記事で取り扱うことも快諾して頂き感謝しています。ありがとうございました。

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