山の神

“アダチさん”はいつも

まえがき

 直近の二回を私の両親の紹介に費やしたので、今回は少し私と距離を置いて書いていこうと思う。これは私の職場で名物となっているお客さんのある一日の記録である。

“アダチさん”

 通称“アダチさん”(本名は当然知らない)は70に入ったかどうかという年齢の男性である。薄緑色をした作業服にフード付きの上着をいつも着ている。上着は羽毛入りをうたったふんわりしたタイプではなく、薄いポリ生地の間に綿を詰め込んだようなもっさりしたもの、紺色。長年使ったせいで綿も潰れてせんべい布団を身につけているような感じ。知らないメーカーのロゴが胸の所に刺繍されている。
 トレードマークはHと表に縫い取りのある白と紺のシンプルなキャップ。服には無頓着そうなアダチさんだが、帽子にはこだわりがあるのだろう、角を立てるように生地に癖をつけており、席に着くと頭に乗せただけの形が整った帽子をそっと机に置く。正面から見える対面席に。
 アダチさんには席の定位置がある。入り口から一番近いテーブル席かそこが空いていなければそこから一番近いカウンター席。朝9時半過ぎ今日もそこへ無言で座った彼は帽子を丁寧に置いた後、腕組みをして静かに目を閉じる。そして我々店員が近づいたのを察すると一言
「納豆朝食」

 この老人は私たちの店にほとんど毎日やってくる常連さんである。小さな市にある数少ない飲食店の一つなので常連さんは彼ばかりではないのだが、“アダチさん”などと愛称を獲得したのは私の知る限りこの老人だけである。なぜ“アダチさん”なのか同僚に尋ねてみるも皆首を傾げるばかり。返ってきても「なんとなく“アダチさん”ぽいから」という漠然とした答えしか聞いたことがない。私としては“スズキさん”ぽいと思うのだがまあ不毛な議論である。
 ともかくも“アダチさん”は我々の間で知らぬ者はいない存在である。それは彼の朴訥としたキャラクターも無関係ではないだろうが、何よりも一本通した芯の強さゆえであろうと思う。
 彼の注文するメニューはただ一つ「納豆定食(朝なら納豆朝食)」、それ以外を注文されたときは店に衝撃が走るほどの徹底ぶりだ。彼の愛称が“ミトさん”なら私も文句なく受け入れたと思う。朝昼晩と来店して全食「納豆定食」ということも少なくないのだ。

“アダチさん”の一日

 朝の来店時、彼は「納豆朝食」と店員に言うと再び目を閉じ思索にふける。
 今朝目覚めたのは四時過ぎ、まだ日も昇っていなかった。どうもここ最近朝早くに目が覚める。これが年寄りの早起きというやつか。重く身体を押さえつけてくる布団を押し退けて体を起こす。冬の朝は特に寒気が強い。我が家にあるのは昔ながらの石油ストーブばかり、どうせすぐに外に出るのだからと点火せず寒さを堪えながらいつもの作業着に着替える。やはりこの格好が一番しっくりくる。
 水をコップ一杯、これは数年前先に逝った家内が臨終間際自分に遺した遺言だ。とにかく水を飲んだ方がいい、何のテレビで仕入れた情報か知らないが遺言とあっては無視するわけにもいかない。冷たい水が胃に落ちていくとぶるっと体が震えてスイッチが入る。小便を済ませ顔を洗えば意識はもうはっきりしている。
 今年の冬はほとんど雪が降らなかった。だから雪かきの手間がなくすこぶる快適だ。「ごくろうさま」と労ってくれるやつもいない今、あんな重労働は無いに越したことはない。薄暗い廊下を手探りならぬ足探りで進み玄関へ。外に出ると案の定積雪はなく路面が凍結した様子もない。薄く霧がかかっていて街灯は曇りガラスを通したようにぼやけて見える。点々と続く光を辿るように俺は日課の散歩を始めた。

来店その一

「ごゆっくりどうぞ」
 店員のぼそぼそした声に目を開けるといつも通りの朝飯が準備されている。箸をとりまずは納豆に手を伸ばす。これは家内がいた時から変わらない俺の流儀だ。
 味噌汁をすすりいつもより少しばかり塩辛いことに気づく。これくらいが俺にはちょうどいいが塩分の摂り過ぎかもしれない。店員が始めに持ってきた麦茶を飲んで腹の中で薄める。
 散歩がてら覗いてきた畑は心配していたよりも湿っていて今年の作物もなんとかなりそうだと思った。暖冬が酷暑を連れてくるのか、それとも冷夏になるのかは分からないがこればかりはどうしようもない。だが俺には経験がある。曲がりなりにもモノにしてやるさ。
 気づくと店の外に出ていた。帽子もちゃんと頭に乗っている。元来た道を戻り少ししたらまた来ることになるだろう。まったく冬らしくない冬だ。身につけてきた軍手を上着のポケットから出すのをやめて気怠く晴れた空の下を歩き出す。

 洗濯物と布団を天日の下に干し、手慰みに倅の置いていった本を取り出してぱらぱらとめくる。甲子園を目指して県内の強豪校に入学した倅は夢叶わず散ったけれど、今県外でスポーツ用品の営業職をしながら小学生たちに野球を教えているという。「まあまあ幸せさ」という倅は若くして嫁をもらい一番下の娘も今年で四年制大学を卒業らしい。我が家に寄っていくのは年一回あればいいところだ。家内がいた頃はもう少し、と思わないでもないが自分では格別なもてなしも出来ないだろうからとほっとしているところもある。
 倅はイチローが好きで、ここにある本もほとんどイチロー関連の技術書や精神論だ。同世代のスターに憧れや羨ましさを抱きながら元気づけられることもあったのだろう、付箋が何枚も貼られ汚い字の書き込みもいたるところにある。自分の影響で息子もイチローに憧れ「朝ごはんは毎日カレーにしてほしい」と言ってきかないと嫁が愚痴をこぼすのだと一度倅から聞いたことがあった。

来店その二

「納豆定食」
 席の空いた頃を見計らっていつもの場所を確保した俺は注文を尋ねるとぼけた顔の店員を見て反射的に答えていた。目を閉じ口は一文字にと思うが無意識ににやついてしまう。これでは毎朝カレーをせがんでいた孫と一緒ではないか。情けなさと一緒に込み上げてくる正体不明の嬉しさが自慢のポーカーフェイスをいとも簡単に打ち砕いてしまう。
「ごゆっくりどうぞ」
 店員に気づかれぬよう咳払いして俺は納豆に手を伸ばす。
 目の前に置かれた倅の帽子を見ながら納豆の乗ったご飯を掻き込む。イチローか。いつの間にか老けて白髪もちらほらさせた男が記者団の前で引退を告げる場面が頭に広がる。倅と、その倅も憧れた伝説的メジャーリーガーも数年前に引退した。そういえばちょうど家内がお天道様の元へいった頃だろうか。だから覚えているのかもしれない。
 店を出て、夜もまた自分はここに来て「納豆定食」を食べるのだろうと思う。イチローは引退した後も毎朝同じ食事をとっているのだろうか。俺は果たして引退してしまったのだろうか。引退したとするなら何から?
 冬といってもまだ14時過ぎ、晴れた空は軽く霞みがかっているけれどまだまだ明るい。俺は帽子の形を整え頭に乗せると右腕の袖を軽くつまんでから家に向かって歩き出した。

 “アダチさん”がどんな生活をしているのか、私が知っているのはいつも「納豆定食」を頼む無口な老人の姿だけ。しかし、毎日やってくるあの常連さんは間違いなく私の一部を創るかけがえのない存在なのだ。

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