note短歌

【ない昼・ある夜①】 薄っぺらいビルの中にも人がいる いるんだわ しっかりしなければ/雪舟えま

幼い頃から「しっかりした子だ」と言われてきた。「大人しい」とも「やんちゃだ」とも言われなかった。「天才だ」とも「馬鹿だ」とも言われなかった。言い方を変えれば、どことなくしっかりしている以外の特徴がなかったんだと思う。私はそういう子供だった。そして、そういう大人になった。

この街のビルはどれも同じように見えるけれど、あなたが入ることを許されているビルは意外と少ない。昼休み、少し遅れてコンビニへ行き、てりやきチキン卵サンドとブラックサンダーを買い、ベンチで食べ、特にやることもないので職場へ戻ろうとしたときに、社員証が見当たらなくなってしまった私もまた、ビルに入ることを許されていない。

もう、どのビルだっていいような気がする。転職した初日から「しっかりした人ですね」と言われて、特に怒られず、特に親しい人もできず、ひと月が過ぎようとしているあの場所に、私は戻る必要があるんだろうか。本当は気づいているのだ。少しずつ、少しずつ、私はしっかりできなくなっている。唯一のアイデンティティだった「しっかり」が、砂時計の砂粒のように私から失われてはじめている。ある昼にふと社員証が喪失するように、いつしか私の「しっかり」は完全に失われて、私はもう、どこにも居ない人間になるのだ。

午後一時五分前、私はひとつのビルへ入り、守衛さんに事情を話し、然るべき手続きをとり、職場に戻った。誰にも怒られなかった。社員証はデスクの下に落ちていた。

私は人間だし、あなたも人間だし、みんなまだ、ビルのなかに居てもいい。


◇短歌◇

薄っぺらいビルの中にも人がいる いるんだわ しっかりしなければ

/雪舟えま 歌集『たんぽるぽる』短歌研究社

#短歌 #俳句 #小説 #きみは短歌だった

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