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日本の隣で何が起こっていたのか~古代中国史~

皆さん、こんばんは!!理系大学院生の優です。
だんだんと寒さも増し、紅葉の秋も過ぎていきました。
本日の記事は、日本のお隣中国史の話です。私事ではありますが、中国史だけは世界史の中で面白さを小学生から感じておりました。最初は、王道の三国志にハマりました(笑)その次に、学校の図書館で水滸伝を読んでいたのが懐かしいです。

中国史って日本より進みすぎていてびっくりしたことありませんか??
だって、あの三国志の曹操が建国した”魏”の時、日本はまだ卑弥呼の時代ですよ!!魏志倭人伝ってあったでしょ!!卑弥呼が神に祈っている時に、海を挟んだお隣では、劉備やら孫権やら曹操やらがあんなに高度な戦いを繰り広げていたんですから、びっくり、、、。
でも、そもそもなんでそんなに歴史が進歩したの??こんな疑問に対する答えになれば幸いです。今回の参考書籍は、

です。結構答えはシンプルで、大きく三つあると言われています。

①筆写材料の進化
②始皇帝の確立した中央集権体制
③孟子が生んだ革命思想

①の要素は運によるところが大きいですが、②及び③に焦点を当てると、歴史は当時の政治体制やイデオロギー(考え方、思想)に影響されることがわかります。では、順番に見ていきましょかい!!

①筆写材料の進化
まず初めに、最も歴史の情報が残っているのは、イスラーム世界と中国であると言われています。これは、文字を何に書き残しているかが後世の人間が知る歴史の内容を左右するということです。ちなみにイスラーム世界、例えば最古の文明であるメソポタミア文明では、楔形文字を粘土板に残しています。粘土板は皆さんのご想像の通り、固くなる。これを焼くとさらに固くなる(笑)そういうわけで、長年残りやすいってことです。じゃあ、中国は??中国はでした。私たちが現在、離れようとするけど離れられずにいるあのです(笑)紙の原料は、植物の繊維であったそうです。今も昔も材料は変わっていないそうですよ!!こんな画期的な発明がされたのは、なんと後漢の時代だそうです。最近は、紙を石灰石から作っている日本の会社も出てきています。筆写材料がまた進化するかもしれませんね。

②始皇帝の確立した中央集権体制
続いては、あの春秋戦国時代を制覇した秦の始皇帝のお話です。その前に、中国文明の文字の歴史について説明させていただきます。中国文明では、殷の時代に亀の甲羅や動物の骨に書かれた甲骨文字が発見されています。これが最初の文字です。しかしこれは企業秘密のようなもので、甲骨文字を読み書きできる人は、王とその周囲の人間ぐらいでした。そこから時代は周になります。周には栄えた前半の西周と弱体化した東周があり、西周は北方民族の襲来により、一度滅びます。西周には、字の読み書きを職としていた金文職人と呼ばれる人たちが居ました。この人たちが、西周が滅んだ時にどこにいったのか。もちろん現代人と同じで、収入ができるだけ下がらない転職先を探します。そこで、各地に散らばった諸侯のもとに行きます。そして、時は春秋時代から以下の三つの変化が起こり、戦国時代へと変遷していきます。

①晋の分裂で下剋上の風潮
②鉄製農具の普及
③青銅器を用いた貨幣誕生

よって戦国時代では、強き人間のみが残り、自国の領土を拡大していきます。最終的に勝ち残ったのは、天才始皇帝率いる秦です。始皇帝は、あの広大な中国全土の統一を図ります。並大抵の賢さではありません。広い領土を統制する際に、最も大変なことは命令をどう伝えるかです。二、三日伝令が地方まで移動する際に、酒を飲んだり、道に迷ったりして、着いた頃には命令を忘れてるなんてことも起こりえます。そこで始皇帝は、自らの命令を木簡や竹簡、および紙の原型に文字で書き記して、伝令に渡しました。そして、エリート官僚を地方に派遣し、管理させる郡県制を確立しました。漢字などの表意文字は、都合の良いことに少ない文字数で多くの情報を盛り込むことができます。この始皇帝の文書行政の確立が、中国文明の発展に大きな影響を与えました。

③孟子の生んだ革命思想
そして三つ目が、性善説で有名な諸子百家孟子の易姓革命という革命思想です。諸子百家って、現代風に言うとコンサルタントです(笑)王様に様々なアドバイスをする人たちです。その中に、孟子という人がいました。孟子は、論語で有名な孔子の弟子だった人です。
易姓革命のきっかけになったのは、殷から周への間に起こった殷周革命です。この革命の前後で、同一であった天空の支配者と人間界の支配者が分離しました。と呼ばれていた天空の支配者が、と呼ばれるようになったのです。ここから、悪政を行った王に下る天罰は天が与えたものであり、そこで王朝が変わる、つまり王の姓が易(かわ)るという易姓革命の思想が誕生しました。この思想の影響があるため、中国史の各王朝間の転換理由は悪く書かれがちです(笑)典型的なのは、美女に溺れるとか。だから、後に続く王朝の皇帝は、歴史にできるだけ良い形で書かれたいと思い、国政に励むわけです。


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