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「生きる」と「死ぬ」の両方に向き合う

今朝、布団を畳んだ後にスマホの通知を目にすると、私と同世代の役者さんが亡くなったとの知らせが入っていた。

綺麗な方だったし、いくつかの作品は好きで記憶に残っている。

なにやらご自宅で遺体が発見されたらしい。


ワイドショーは見ないのでよくわからないけど、Twitterなどでは死因について憶測の域なのに騒がれている印象だった。


命、生きる、死ぬについてこの前書いたばかり。。。

この度の死因が自死だったとして、周りが騒ぐのは何のためにもならない。


特にテレビなどのメディアでは、騒がないで欲しい。


大小問わず影響を受ける人がいるからだ。

私のように多少なりとも狂っていれば「本人の生命としての権利を行使したのだろう」と冷静でいられる。

しかし、そうでない方、感受性豊かな方、今弱ってる方などが、苦しむきっかけになる場合がある。


辛い人、苦しい人を本気で助けるつもりがないのであれば、メディアは静かにしてくれた方がいいと思う。

コンテンツ内で数分取り上げて、同じ言葉同じ画像を繰り返して、神妙な顔をするだけだったり、憶測の原因を作り出し、悪者に仕立て上げて叩いてみたり、そんなことしかしないのなら静かにしているほうがよっぽどいい。


自ら命を断つのを推奨も称賛もしない。美化もしない。

けれどそこに至った何かがあったのだろう、と事実と悲しみは受け止めたい。


人は何らかの形で死を迎える。

そこに正しい形はあるのか?

その形でなかったとしたら、どうだというのか??

わからない。


死を選ぶ人は、死後の何かを知っていて、現状よりもいいから死を選ぶのだろうか?

そんな冷静な判断ができるのだろうか。

そうではなく、追い詰められたギリギリの状態で「選んでしまった」のではないかと思う。


「どう生きるか」とか「とにかく生きる」みたいな言葉はとてもエネルギーを感じる。

でも十分ではない。

「死」を考えておかないと、選択肢として妥当に扱えないのではないか。

「生きる」に一生懸命になるように「死」についても考えを巡らす時代なのかもしれない。


私には今日も命がある。

なので、今日を生きようと思う。

明日の事は明日決めよう。


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