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多様性社会って、みんなで1つのものに興味を持つことが減るの?

何から書き始めたら良いのか、まとまらないまま書き始めることにした。。。

これは、時代による家族という集団の変化から感じたことなのだけど、私が感じている「時代」も、私が目にする「家族という集団」も他の多くの人と違うものかもしれない。

だから、一概には言えない。

全く違う感じ方をしている人もいるとは思う。

でも、私の感じたことを書いてみることにした。



私が子供の頃、家には祖父母、両親、私を含む3人の兄弟の合計7名が暮らしていた。

私たち子供が小さい時は、食事を7名全員集まって食べていた。

私たち子供の成長に伴って、それとなく祖父母は部屋を別にして食べるようになった。

ある種の「集団の解体」だった。


家の中で大きく分けて2つのグループになったからなのか、元々なのかわからないけど、家には「テレビ」が2〜3個あった。

現代はリビングなんて呼び方をしているけど、当時の私の実家は「居間」という呼び名の方が相応しく感じた。

その居間に1台のテレビ。祖父母の部屋に1台のテレビ。寝室に1台のテレビ。

そんな構成だった。

私の小学生時代(低学年)は「居間でみんなで同じテレビ番組を見る」のが当たり前だった。

昭和の時代、父はプロ野球中継、ニュース、時代劇、大河ドラマ、大相撲、競馬、ゴルフ、格闘技などのテレビ番組をよく見ていた。

今ほどバラエティ番組や歌番組はなかったのかもしれない。

私たち子供は「見たいわけじゃないけど」テレビが他にないし、「チャンネル権」がなかったので、「みんなで同じ番組」を見ていた。


歳が進むと「見たい番組」が生まれる。個々の性格や興味ができ始めたからだろう。

しかし、チャンネル権がないので「見たい番組」を見ることはできない。

両親との交渉に敗れると、祖父母と交渉し、見せてもらったりした。


そして、両親の寝室にテレビが一台入るようになると、「見たい番組」に関する意見が割れたときに、そちらの部屋に移動するようになった。

テレビが増えた結果、チャンネル権の争いは落ち着く。

しかし、テレビが増えた結果、また1つの集団が解体されたのだ。


兄弟間での趣味嗜好もバラバラになり、色濃くなると、争いが絶えない。

パワーバランス的に弟はよく祖父母の元へ行っていた。祖父母の部屋のテレビはBS放送の視聴ができたからというのも理由の1つだ。

テレビの台数はそのままでも、チャンネルが増えた結果、兄弟という集団も解体される。


テレビの台数や、チャンネルの個数、パワーバランスによって、家族という集団は解体されていった。



そして、自分が大人になり、家族を持ち、親になったとき、事態はさらに変化する。

私の家はテレビが1台だ。

地上波の放送しか入らない。

その代わり、AmazonのFire TVは視聴可能だ。チャンネルというか視聴可能なコンテンツの数はとても多い。YouTubeも見ることができるから。

しかし、テレビは1台。

当然だけど、私が子供の頃に経験したチャンネル権の争いが生まれる。

はずだった。

今は、スマホ、タブレット、PCなど、コンテンツ視聴が可能なデバイスがテレビ以外にもある。

娘の一人はテレビでドラマを観て、妻ともう一人の娘はパソコンで録画された動画コンテンツを観て、私はパソコンでDAZNのサッカーの試合を観ていた。

やっぱりデバイスによって集団は解体されていた。


みんなで同じテレビ番組(コンテンツ)を観て、笑い、怯え、感動する体験は失われてきている。。。

テレビを含めたデバイスの数だけ、集団は細かく解体が可能になったのだ。。。

「周囲の意見に同調を強制されず、自分の意見が主張できる、認められる」のを多様性のある社会と呼ぶだろうか???

もしも、そうなのであれば、私の所属する家族という集団は多様性があるとも言える。

けれど、みんなで1つの経験を分かち合う集団とは「いつでも距離がおける」ようになってしまっているのも事実だ。


個性を尊重とか、多様性とかの言葉によって、集団への同調圧は減る兆しを見せてはいる(気がする)。

それは、人々が求める方向なのだろうか??

求めるからそちらに進むと仮定すれば、集団の解体は人々が求めたことなのかもしれない。多分だけど資本主義経済はそこに一役買っている。


経済が絡んだとすれば、「解体を求めた」のは納得できる。

解体されればそれだけモノが必要になり、すなわちモノが売れる。

だから、解体された方が色々と都合がよかった。


しかし、その資本主義経済も変わり始めている。

多様性や個性の呼び名で解体されて、個になっていった人々はまた「集団」に向い始めている気がする。


でも、昭和の時代のような形にはならないと思う。


思えば、テレビのチャンネル権争いに参戦して、家族という集団の解体に向かったのは「学校のクラスの仲間たちが話題にしているコンテンツを観る」ことが目的だったように思う。

家族という集団ではなく、学校の仲間という集団で「体験を共有」するのを優先して、家族の解体を選んだのだろう。


個になろうとしたのではなく、単純に違う集団に移籍しただけなのかもしれない。

人は多様性や個性なんて認められたいのではなくて、いつもどこかの集団に属して、そこで認められたいだけなのかもしれない。

その集団の特徴に幅が生まれているから多様性に見えなくもない。

やっぱり人は最後の最後には「みんなと同じ」を求めるのか、という思いに至った。


Amazon primeのサービスに「ウォッチパーティー」というモノが加わった。

複数名でオンラインで繋がり、同時に1つのコンテンツを見ながらリアルタイムでチャットでコメントし合う。

つまり、笑いや感動の共有体験を一緒にいなくても、離れていてもやってみようということだ。

テクノロジーはこれまでの概念を破壊する。それと同時に、また別の概念を構築する。

つながりを求めているんだ、人は。


「鬼滅の刃」という作品の歴史的な盛り上がりもそういう部分があるだろう。

「みんなで1つの作品を話題にしたい」という願望が常にあったのだと思う。

かつては音楽でもドラマでも小説でもそういうところがあった。

ミリオンセラー作品とかってそうやって生まれるのだと思う。


同じ家にいて、別々のコンテンツを体験し、その体験を共有するのが減っている我が家族。

「みんなで同じこと」を見たり聞いたりするのは徐々に減っていっている。

それは、家族じゃない場所で、家族とは違う集団で、体験や感情の共有をし始めているということなのか。


私はどちらかというと、そういう集団に属していない。

こうやって独り言を書いている。

それを読んでくれる人がいる。

「スキ」とか「コメント」が私にとっての共有体験になっているのかもしれない。


「みんなで同じコンテンツ」を楽しむ時の「みんな」の意味が多様化しているという結論にたどり着いた。。。


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