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失敗を笑いにする

テレビ番組やYouTubeとかで、「上手くできない」のを笑うコンテンツがある。

自ら積極的に「下手にやって」、自分から笑ってもらおうとしていたり、笑う方と笑われる方の合意(フィクション)の上でやっているのだと思っている。

クイズ番組のヘンテコな回答もわざとやっている場合がある。

笑ってもらいたい人がやってるのはそれでいいかもしれない。


でも、それを見ている視聴者は「失敗や上手くいかなかったこと」は笑うものだ、と学習していくだろう。

バラエティー番組を見ていて、滑って転ぶ人を見て笑うシーンを見て笑っていた子供が、サッカーの試合で芝に足を取られて転ぶシーンを見て笑った。

その子供に強い違和感を感じた。


そういう場面って、学校や社会で頻発しているんじゃないか?


真剣にやっている失敗を笑う、馬鹿にするような人がいる集団、チームでは成長が得られない。

成長にミスはつきものだから。ミスを避けるようになったら成長も遠のく。


少なくとも何かを成し遂げたいというモチベーションは生まれないと思う。



笑う側の人間は「真剣にやったことで笑われた」経験があるのだろう。だから他人にもしてしまう。

笑いをとろうとして笑われるのと、真剣にやっていて笑われるのは意味が違う。

前者は目的が達成されるという充実感がある
後者は傷つく

私個人は、人が真剣にやっている姿を笑わない人間ではいたい。できているかどうかはわからないけど、笑を誘っている時とそうじゃない時を見極められる人にはなりたい。


人は自分が誰かにされたことを誰かにする。

周りの影響は大きい。

優しくされれば優しくする。
暴力をウケれば暴力を振るう。
馬鹿にされれば馬鹿にする。

真剣にやって笑われたら、真剣にやってる人を笑う。

学習ってそういうことか。



例えば、音楽は譜面通りに演奏できて成り立つ。

譜面通りに演奏できれば正解で、譜面通りでなければ失敗なわけだ。

失敗を許容できない環境が楽しいだろうか?


プロを目指したり、正確さを競う環境なら、失敗を指摘し、失敗を減らす助言や努力は必要だろう。

そういうのを求めているメンバーが集まっている環境なら、何の問題もない。高みを目指してがんばるといい。


そうではない場合に、例えば単純に音楽を楽しみたいだけの人がいた場合、そのグループをどうするかというグループの方向性次第、つまりリーダー次第となる。

リーダーがダメだとメンバーもダメになる。

メンバーがチームやリーダーを選べるといい。

楽しみたいだけの人がいられるグループを選べたら良い。

正確に演奏したい人が集まるグループを選べたら良い。


そういったグループの違いに優劣をつけて、攻撃を開始するのはあまりに愚かである。

競争はあっていい。

難しい世界を目指したっていい。

優劣をつけて馬鹿にするのは、する方もされる方も得るものはない。

そして、された人間は無意識にする側に回り、エンドレスのループになる。


選択できるグループの数が増えることと、自由に選択できることと、そこの違いについて優劣を作って攻撃したり馬鹿にしたりしないようなリテラシーが生まれるのが理想か。

世間を見ていると学校の部活動という仕組みは、そうはなっていないみたいだ。

先生も生徒も大変だ。

徐々に地域のクラブが機能するようになってきただろうか。


テレビやYouTubeの「お笑い」はフィクションであり、現実に同じことをすると痛い目を見る、と気付けるといいのか???

価値観の押し付けはしたくないけど、失敗を笑う風潮は好みではない。


ただ、失敗は時間が経つと本当に笑い飛ばせるくらいになる。話のネタになるのは本当だ。

それは成長あってこそ。

成長が伴っていない状態で笑いにしてしまうと、傷ついちゃうので注意が必要だと思う。

笑いにしていいのは本人であって、他者ではないのよね、きっと。


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