音声メディアで「ながら聞き」に適応できない

先日、「音声メディアは、ながら聞きができるからこの先伸びるだろう、という意見に賛成できない」という話をしていた。

動画は「視て、聴いて」の文字通り視聴をすることになる。

目から耳から情報を受け取る。

情報量が多いから理解の助けになったり、共感が生まれたり、色々な効果があるのだろうけど、その視聴の間は身体と時間を奪われる。

言い換えたら、他のことができなくなる、に近い。

画面を見ながらコーヒーを飲んだり、ポテチとかを口に運ぶくらいはできるだろうけど、なにか意味のある行動や思考はできなくなったりする。

思考停止状態。

食事中にテレビがついていると、我が家の子供達は画面を見て箸は止まるし、咀嚼が止まる。

画面を見ているだけだ。

視線を切れば、「食事」という行動は行える。

動画の視聴はそれくらい、時間と身体を奪う。

目からの情報は体の動きを止めるとも言えるのだろう。

けれど、先ほどの視線を切るの例のとおり、「耳からの情報」に限定すれば何か別の行動をとることができる。

食事をしながら
掃除をしながら
車の運転をしながら

音声の情報を受け取るのが可能だ。

現代人は忙しい。

動画視聴に奪われる時間の捻出が難しい。(そんな人ばかりじゃないと思うけど)

そこで「ながら聞き」が採用されるだろう、という算段が情報発信側、コンテンツ作成側から声が上がったりする。

それを聴いた時、「たしかに」と思った。

掃除しながらでも、気に入った音楽が流れていたら捗ったりする。

これからは音声メディアだな。

一瞬賛同した。

ところが、だ。

いざ、Podcastなどで音声コンテンツを聴いてみる(音楽ではなく、会話など)。

聞きながら別の仕事が、私はできない。

聞いていれば手が止まるし、手を動かせば耳に入らない。

結局、音声は「それ用の時間を作って」聞いていないと頭に入ってこない。

私にとっては「ながら聞き」は成立しなかった。

そんな話をしていたら、それは最近自分に疑いをかけている「自閉症スペクトラム」の傾向によるかもしれないと言われて、納得してしまった。

1つのことに集中してしまう。

昔からあれこれは同時にできず、何かをやれば、何かは完全にぬける、それが自分のパターンだった。

だから、料理はとても時間がかかる。

作る品目に比例して時間がかかる。(私は一汁一菜が最高だと思っている)

食べるならまだしも、作るならコース料理は不可能だ。1人では不可能だ。

質と効率の伴った料理を要求されたら、私はキレるだろう。

それもあって、自分が食べる分には全く困らない程度のアイデアと技術が料理に関してはあるけれど、誰かに振る舞うとなると役に立たない。ポンコツだ。

それも特徴の1つと言えば、そうなのだろうけど、自分の特徴を冷静に理解してみると、社会になじんだり、仕事などの活動で誰かと協力したりっていうのが上手くできない人間なのだなあと思う。

何かしらの思いがあって事業を興した人の話や、それが継続している人の話を聞くのはとても楽しいし好きなのだけど、自分にはできないだろうという現実を感じ取ってしまう。

実際に個人事業も法人登記も経験があるけど、上手くいかなかった。

細々と自然の流れに身を任せて生きているのが性に合っているのかもしれない。

思いだけはあるのだけどね。「自分の人生を歩む人が増えて欲しい」っていう思いが。

自分の人生を歩むって、他人に干渉しないし干渉されないってことだろう。

だから、自分の人生をただただ歩んでいる。

なんで音声メディアの話が人生の話になるんだ???

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