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Frank Rosolinoの「I Play Trombone」

筆者が春先になると聴きたくなるモダンジャズのアルバムに、トロンボーン奏者フランク・ロソリーノ(1926-1978)の、「I Play Trombone」(Bethlehem 56年作)がある。この作を入手したのがいつだったか、もう憶えていないが、以来とても気に入っている。

ロソリーノについて、実は、はじめて聴いた当初好きになれなかった。トロンボーンといえばどうしてもJJ ジョンソン、カーティス・フラーになり、こだわるとスライド・ハンプトンも加えてみたい。そこから更に追及すればディクシージャズへと さかのぼってしまう。

(ディクシーランドはトロンボーンやクラリネットが豊饒で、入り込むとそこには素晴らしい世界が広がっている。)

そんな自分には、ロソリーノは馴染みにくい型の奏者だった。まず“吹き過ぎ”るし、テクの凄さは分かるのだが、フレーズの味も薄い。妙に音が硬くて耳にさわる…。

だが、そうした印象は、このアルバムを何度か聴き込むにつれ、変わっていった。

いざ自分がリーダーになり一枚吹き込もうとすれば、ワンホーンでじっくり歌うという形式がとられた。採用した曲も歌物がならぶ。冒頭“I may be wrong”は、解説の寺島靖国さんによれば「もともとドリス・デイなどが愛唱した一種の小唄」(COCY-80068)らしいが、さすがに時代が古い。ドリス・デイとなると筆者も来歴が掴めない。

(今回Youtubeでデイの歌唱を聴いた。さっぱりしたきれいな曲である。大時代の雰囲気だが、この種の旋律と歌詞、曲風が生きていた時代を想う。)

しかしロソリーノは、無駄なフレーズなど吹かないのだ。フレーズ、音色、音量を慎重に駆使して隙のない歌わせ方をしているときく。ミュートしているがそこに音色があって、響きもきれいだ。

ディクシーに親しむと、トロンボーンのミュートの音は、トラミー・ヤングなど“デューク・エリントン的なジャングルサウンド”のイメージが強いのだが、もちろんロソリーノは、あくまでも“モダン”である。甘い響きで、寺島氏はここでロソリーノをチェット・ベイカーと比較されている。なるほどと思う。

JJやフラーなど黒人達のトロンボーンにある音のふくよかさに対し、ロソリーノはキンキンしていて硬い、という印象があったのだが、この一作はそうした要素もひとつの個性へ変えて、徹底して「歌う」世界に高めている。

ロソリーノがいざ、歌えば、このように完成度の高い、隙のない“ワンホーン・カルテット”が出来上がる、という事だろう。

「I Play Trombone」は、ロソリーノを苦手という人にこそお勧めしたい作品である。一聴で“やはりこの音が…”という方がいれば、何度かじっくり聴き返してみてください。