詩人左川ちかの「眠つてゐる」について
左川ちかの作品から「眠つてゐる」を、今回は取り上げてみたい。
私は、解説もなにも、これを読んでまず感動がおこるし、静かな衝撃も感じる。この人はよくぞこの十五行ほどの中にこれほど圧倒的で壮大な劇を刻むことが出来たと思う。
一行一行とすすむごと場面の転調を繰り返してゆくのだが、そのなかには暗く激しいドラマがある。また、筆致が抑制されているためにかえってそれが各場面の緊張を高めているように思う。
「髪の毛をほぐすところの風が茂みの中を駆け降りる時焔となる。
彼女は不似合いな金の環をもつてくる。」
筆者が先の記事「詩人「左川ちか」について」でも言及したが、やはり性的な暗喩は籠められているようだ。左川の詩にこの要素はけっしてめずらしいものではない。
「まはしながらまはしながら空中に放擲する。」
これは映像的だ。“まはしながらまはしながら”と、二度繰り返すことで官能的な音楽のような表現がはさまれる。耽美的な場面だろう。だが、視えてくるのは暗い心象風景だ。
「凡ての物理的な障碍、人は植物らがさうであるやうに…」
ここに「障碍」という表現が出るところに注意してみたい。また「人は…」と、普遍的問題を取り扱おうとするが、それを「植物」の比喩で言い表している。読者としては見逃したくない気がする。
「併し寺院では鐘がならない。」
左川ちかの詩の劇はこういう箇所にある。「寺院」「夜」「庭園」「凹地」、これらの言葉から、作品世界の舞台や心象風景が可視化されていく。
そして最後に
「それから秋が足元でたちあがる。」
と書きおさめるまで、まるで一本の論文のような硬質な文体で綴られた作品だ。この、最後の所では詩表現自体が持っている美質に打たれる。
本当はこれら後半行に詩人が籠めているところの示唆、暗示があるのだろう。ただ、左川ちかの詩にはあまり接近しすぎないほうがいいのかもしれない。彼女の構築した詩空間には鋼鉄のような強度があるのだ。
この「眠つてゐる」に限らず、彼女の作品にはゆたかな感情や詩情も随所にある。それが、同時代に登場した瀧口修造(1903-1979)や西脇順三郎(1894-1982)との決定的違いだ。しかし、彼女の詩は甘くない。柔らかさもない。瀧口や西脇の作に時折含まれている「諧謔味」(ユーモア)も、微塵もない。その詩心は激越なものだ。
左川ちかは、その作品においてはひとつの世界(観)を描出しているかもしれない。
彼女は二十四歳で病没している。この人の“円熟”とか“枯淡”とか想像ができない。彗星のような、おそるべき詩人だったし、その痕跡はいまもなお輝いているようだ。