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『すずめの戸締り』が伝えたかった事を考える

※この記事はネタバレを含みますので、映画を視聴された方を前提に書かれています

新海誠監督の最新作、すずめの戸締りを視聴してきました。
迫力ある音や映像、笑いあり涙ありと、純粋にエンターテイメントとして楽しめたのですが。その反面、なんとなくしっくりこないというか、「?」と思う部分がありました。

震災を映画のテーマに絡めてきたので、日本人なら誰でも感じている地震への恐怖やトラウマと絡めて解釈してみたのですが、それだと何かが繋がらない。なんとなく消化不良気味。

モヤモヤしつつ、何かこの気持ちを解消する手掛かりはないかと、映画の特典冊子「新海誠本」をめくっていたら、気になる文章が目に留まりました。

――どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。(略)どこかに通じ合う通路があるはずと、願い続けるしかありませんね。
(新海誠本14Pより)

なるほど、確かにアニメーション映画を作るともなると、それが完成するまでの過程では様々な困難や苦労、葛藤なんかがあったことでしょう。
でも、観客である私たちの殆どは、それを知る由もありません。

なんだかそれって、「閉じ師」と似てるような気がするような?
映画の中でも、閉じ師である草太と鈴芽は大変な苦労をして「災い」を封じていますが、日常を暮らす一般の人たちにはそんな苦労は見えていません。

「願い続けるしかありませんね――」
もしかして、すずめの戸締りという映画はそういうふうに解釈すればいいのかな?
苦労して映画を作ってる側の訴えが少しでも伝わって欲しい、つまり、すずめの戸締りの中で起っている事件のあれこれは、映画を作っている側の視点に立って解釈するのが正しいのではないだろうか?

そう思い立って、映画のシーンを思い出しつつ、想像を巡らせて一から解釈しなおしてみました。
すると、確かに全体の流れが面白いようにつながるのです。

もちろん私はアニメ監督どころかアニメを作ってみたことなんてありませんし、完全に一般人側なので理解の及ばない部分は多いと思います(笑)
ただ、趣味で物語や漫画を作ったりしているので、なんとなく感覚は想像できますし、夢占いが好きで象徴(シンボル)を解釈するのは、自分で言うのもなんですがちょっと得意なところがあります。
あくまで私の想像、解釈の一つと思ってエンタメとして楽しんでもらえればいいなと思って書き留めます。

「ミミズ」の意味するもの

では想像してみましょう。もし自分がアニメ制作側、アニメ監督として映画を作るとなったら。
一本のアニメ映画を作る、それも大作ともなると、実に数年もの歳月が必要になります。その間に、無数のアイデアを出し、膨大な作業量をこなさなければなりません。
しかも、映画は一人で作るわけではありません。沢山のスタッフを動かし、沢山の人の理解を得て、沢山のスポンサーも付き、一本の映画の為に人もお金も思いや時間も、とにかく物凄い量が動きます。
監督はその最高責任者。自分という一人の人間の創作に、それだけ沢山の責任と期待がのしかかるのです。
しかも新海誠監督と言えば、「君の名は。」で記録的大ヒット映画を出し、もはや日本では知らない人がいない位です。それだけ大きな期待と信用を背負っているといえます。

…なんだか想像するだけでも身がすくむ思いですね(笑)

映画の中でミミズは、街を覆うほど巨大で、禍々しく見るだけで不安を誘うような姿をしています。「閉じ師」はミミズが地面に落ちてしまう前に、たった一人で、それも人知れずに無害なものへ変えないといけません。

なんだか両者はとても状況が似ていますよね。
ミミズは、アニメ監督ならではの潰されそうなプレッシャーをイメージ化した存在なのかもしれません。
映画が作られる時に動く巨大なエネルギーを、期待を裏切らないような形に制御して、人々にとって爽やかな雨が降るような無害なものに変える―
もしかして、新海誠監督は「閉じ師」のような気持で映画を製作していたのかもしれませんね。

映画の中で表現されるミミズの迫力に、圧倒された人も多いかと思います。
その迫力は、映画製作の中で生まれる「生の感情」が元になっているから、あれほどの映像が作り出せたのかもしれませんね。
制作側が感じる感情を、視聴者が日常に感じている「地震や災害への恐怖」に変換して表現することで、お互いの「通じ合う通路」のようなものを探していた、なんて想像できるのではないでしょうか。

今の、これからの新海誠監督

映画の中で閉じ師の役目は呪いで椅子に変えられてしまった草太と、封印を解いてしまった鈴芽の二人で行われています。
アニメ監督の視点では、これはどう解釈すればいいのでしょうか。
物語の中盤あたりで、草太は閉じ師として活動しながら、「高校教師」を目指していることが明らかになります。
鈴芽は「高校生」ですよね。
つまり、教える立場と教わる立場。二人は「教師と生徒」あるいは「師匠と弟子」みたいな関係であると匂わせています。

想像してみましょう。
現在(2022年)、新海誠監督は49歳です。
現役で仕事をされるにはなかなかしんどくなってきそうな年齢ですね(汗)
しかも、「君の名は。」から立て続けに大作映画を3本も作っていて、そうとうなハードワークだったでしょう。

――自分自身もこれからは終わっていくのだという感覚がだんだんと強くなってきました。(新海誠本P14より

自身でこうおっしゃってるくらいなので、やはりアニメ監督としての限界は感じてきているのでしょう。
そうすると意識されてくるのが「次の世代」なのではないでしょうか。
自分の経験を、次の世代へとつなげて活かしてほしい。
2人の閉じ師の関係を、師匠と弟子のように匂わせたのは、そんな思いがあったからかもしれません。
たとえ自分が終わっても、次の世代を担う若者が、立派に閉じ師(監督業)を務める姿を見てみたい。
そんな夢が元になって、この映画は作られた、そんな風に想像できるのかもしれませんね。

「椅子」が意味するもの

物語の序盤に、草太はダイジン(猫)に呪いをかけられ、椅子に変身させられてしまいます。
鈴芽は椅子になった草太と旅をして、最後に呪いは溶けるのですが、その椅子を子供の頃の自分に渡すという印象的なシーンが登場します。

…なんだかこの「椅子」やたらと意味深ですよね。
いったい椅子を通して何を伝えたいのでしょうか。

一般的な象徴(シンボル)として解釈すると、椅子は「ポジション」のようなものを暗示します。
私たちは、早ければ幼稚園や保育園、学校、職場と椅子を自分の社会的な場所として成長していきます。
王の座に就く、のような権威のシンボルとしても使われますね。
社会的な立場や居場所、アイデンティティと言い換えてもいいかもしれません。

鈴芽の椅子は、鈴芽が小さい頃にお母さんが手作りしてくれたものです。
これは、最初の自分の居場所を、お母さんが作ってくれたと解釈できそうです。
ところが、震災が原因で鈴芽はお母さんを失います。それと同時に、椅子(自分の居場所)も失ってしまいます。
その時になくした椅子を、未来の鈴芽が渡しに行く。
居場所を無くして不安で仕方のない、子供の頃の小さな自分に、「あなたの居場所は未来にちゃんとあるんだよ、だから大丈夫だよ」と伝えに行った。そんなシーンと受け取れますね。(泣ける)

ではそんな椅子に、なぜ草太は変身させられたのか。
先ほど書いたように、草太と鈴芽を師弟関係、現役世代から次世代への技術の継承という軸で解釈してみましょう。
次世代に技術を継承するにはどうすればいいか。それには、現役世代が成長するまでの過程を、同じように経験してもらう必要があったのではないでしょうか。

草太が変身した椅子は子供用の椅子、しかも足が一つ欠けています。
案の定、思うように動けなくて草太は戸惑います。
「子供の椅子」は、技術が未発達でまだ経験も知識もない段階、と言うことを伝えていると考えられます。
遊びでも仕事でも、最初のうちは何もうまくいかなくてもどかしいものです。今は成長した大人でも、誰でもそんな時代はあったはずなのです。

現役世代である草太が、次世代の鈴芽と「未熟な時代」を共に過ごし、閉じ師としての仕事をこなすことで、鈴芽が立派に成長し後を継ぐ
そういう流れを作るためには、草太が現役世代として居座っていたら、鈴芽が成長するきっかけがなく都合が悪かったのでしょう。
都合が悪い…誰にとって?草太を椅子に変え、物語を動かし始めた原因は「ダイジン(猫)」
ダイジン(猫)うん、こいつの存在もなかなかに意味深だ

物語を始めるのはトリックスター

トリックスターとは、神話物語の中で、や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。

↑はwikiによるトリックスターの説明文である。うん、そのままダイジン(猫)の特徴に当てはまりますね(笑)
後半には、黒いダイジンという取って付けたようにダイジンに二面性を持たせるキャラが登場するし…
トリックスターは、ユング心理学で"原型(人類に共通する心のパターン)"の一つと言われています。
簡単に言えば、理由もなくイタズラをしたり混沌とした方へ向いたい気持ちは誰でも持っているということです。

すずめの戸締りの物語も、ダイジンの気まぐれによって進められますよね。
壮大な映画の制作も、始まりは「こんなの面白いかも」というような、何気ないアイデアや思い付きだったりするものです。
そんな思い付きは、自分の中のトリックスターが生み出しているのかもしれません。

でも、その後が大変です。「面白いかも」で始めた映画製作も、それを完成させるためには膨大な作業や責任が襲い掛かってくるのです。
そしての作業や感情からくる様々な表現を、視聴者が不快感にならずに楽しめるような作品に着地させなければいけません。
…これ、鈴芽たちが体験した流れそのままのような気がします。

ダイジンがきっかけを作る(トリックスターのアイデアでプロジェクト発足)

ミミズが発生する(映画完成までの大変な作業や責任が発生する)

閉じ師が無害なものに変える(世の中の迷惑になるような作品にならないように監督が制御し、完成させる)

もし、新海誠監督に「映画を作るためには、こんな大変な思いをしてる事を知ってほしい」という意図があったとしたら…
その流れや大変さをイメージ化したのが、ダイジンから始まる閉じ師の仕事ということに繋がるのかも?
信じるか信じないかはあなた次第!ですね(笑)

大人になるということは責任を取るという事

すずめの戸締りで描かれるテーマの一つが「現役世代から次世代への技術の継承」と考えると、それが完了する条件はどんなものになるでしょうか。ダイジンの登場から封印までの流れを追っていくと、その条件というのがなんとなく見えてきます。
始まりはダイジンの封印を解いてしまったこと。終わりはダイジンを元に戻したこと。つまり鈴芽は、自分でしたことにちゃんと責任を取ったということです。
自分でしたことに責任を取れるようになる。これは、子供から大人へと成長したことの証でもありますね。

中盤で要石になった草太を封印に使ったことは、草太に自分のしたことの責任を押し付けてしまったという意味にもなります。
鈴芽は大きな挫折を味わうとともに、自分の靴も無くしてしまいます。
靴が象徴するものは「社会的な役割」です。
責任を果たせず社会的な役割を一時的に失う鈴芽。
移動中にも靴のない鈴芽を周りがヒソヒソと疎ましそうに噂して、ドロップアウトしたことをより強く伝えていますね…
ですが、草太の靴を代わりに履き再出発します。
師匠の代わり「社会的役割」を務めあげようと覚悟を決めるシーンと読み取ることができますね!

ちなみに気づいたでしょうか。
映画の終盤、要石に戻ったダイジンで見事に災いを封じた鈴芽に、草太は自分の羽織っていた白衣を着せてあげます。
すぐに脱ぐのかと思ったら、着ているシーンが結構長い。
上着は「役職」等を象徴します。つまり、草太が鈴芽を、一人前の閉じ師、更には後継者として認めたと、暗に伝えるシーンとも受け取れます。

物語が生まれる場所

少しおまけになりますが、「常世」についての私が思うことも書いておきます。
映画が始まるきっかけ、トリックスターがダイジンで、映画を作るためのエネルギーがミミズ、監督として映画を完成させることが閉じ師、とこれまで解釈してきました。
では、常世はどうでしょう。

常世は、エネルギーの発生する場所、と取れます。
映画は人が作ります。映画以外にも世の中には、沢山の創作作品が存在し、日常に溢れています。アニメ、漫画、小説、絵本…
しかしそれらは、いったいどこから生まれてくるのでしょう?
それは常に、心から生まれてきます。

では「心」はなにから…?
それをイメージした世界が常世なのではないでしょうか。

なんだかちょっと難しいお話になってきちゃいましたが、私はこう考えるのです。
人は、様々な経験をして成長します。
そして、人は誰でも昔は「子供」でした。
子供が経験を重ねた姿が、今のあなたなのです。
つまり、子供のあなたと今のあなたは地続き。子供の頃のあなたは、あなたの心の中に、いつまでも存在しています。

鈴芽の場合はどうでしょう。
母親を失った頃の子供の鈴芽は、絵日記を真っ黒に塗りつぶしています。
先が見えなくて真っ暗で、不安でたまらなかったのでしょう。
でも、常世で眩しいほど奇麗な星空の下、母親が作り、未来の自分から手渡された椅子に座り、何もうまくいかないなりに懸命に絵を描き続けたことは事実なのです。
そしてその時の子供は、忘れていただけでずっと鈴芽の中に存在していました。
そして、閉じ師としての役割を果たした自分が、過去の自分に椅子を渡すー
あなたなら、これをどう解釈するでしょうか?

さいごに

映画を見る前、タイトルの「戸締り」はどんな意味があるんだろうと想像していました。なんとなく終わってしまうような、ネガティブな印象があったのですが、映画を見終わった後は「そういう意味だったのか!」と納得しました。

「戸締り」は確かに終わりを意味します。
ですが同時に「出発」も意味します。
今までの終わり、これからの始まり、その繰り返し、繰り返し…
将来に上映され続けるであろうアニメ映画も、とっても楽しみですね!

最後まで読んでくれた方、ありがとうございました~!

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