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助詞「は」の使いどころについて

スタッフの文書を細かくチェックする時に、しばし「助詞の『は』を使う時には主語が分かりにくくなってないか気をつけてね」と指摘するのだが、もう少し端的かつ解像度高く説明できないかな…と考えていた。昨晩、シャワーを浴びていて、ふと「『は』は、『については』『を』の代用や受け身の文章で使われやすく、その結果、時に作為的に主語や主体を見えなくさせる」という説明が頭に降りてきた。

もう少し解きほぐしてみる。

まず、「は」は「が」と同じく主語を特定するために使われる。この場合、「は」と「が」とを比べると、「は」は「他にも該当する主語があるよ/他と対比すると」という意味を含むのに対し、「が」は「該当する主語はこれだけだよ/対象を特定したい」という性質を持つ。

例えば、
・プーチンは独裁者だ。
・プーチンは独裁者だが、バイデンは独裁から程遠い。
・全部プーチンが悪い。
・プーチンが治めるロシアでは反対派は弾圧される。(従属節の構造を明確に示すために「が」を用いるケース)
といった用法となる。

主語を特定するために「は」を使う場合は、「が」との強度の違いにだけ気を付ければよい。

問題は、「は」を「を」「については」の代用で使う結果、主語が埋没する場合だ。
おそらく、口語的に「を」の代わりに使ってしまうか、他と対比する場合の「について+は」から「について」が省かれるかのいずれかで、
・プーチンは何としても失脚させるべきだ。
・プーチンは許せないが、ルカチェンコは同情の余地がある。
といったケースが散見される。

このケース、主語を特定する「は」との境界線が曖昧になり、「で、プーチンを失脚させるのは誰だ?」「で、ルカチェンコに同情の余地があると思っているのは誰だ?」ということが埋もれやすい。日常会話で気にする必要はなさそうだが、ビジネス文書では、
・誰かがプーチンを失脚させてくれればよいよね。
・ルカチェンコに同情の余地があることが、いつの間に既成事実になっている。
という解釈が成り立ちやすい点で、読み手・意思決定者にスルっと読ませてしまうリスクが生まれる。後で「誰がこれを主張したの?誰が判断するの?」という疑問が生まれかねない。

もう一つ気にしておきたいのが、「は」は受動態の文章において主語として使われやすい点だ。(この文もそうだ)
これも日本語としては間違っていないのだが、これも上記ケースと同じく、判断主体・意思決定主体が曖昧になりやすい。
例えば、
・プーチンは(誰かに)裁かれるべきだ。
・戦後の復興において、ウクライナは(どこかの国に)支援されるべきだ。
とったケースは、よくビジネス文書でも見受けられる。

ということで、私は、明確に主語・主体を示す場合でなければ、できるだけ「は」を使わないほうがよいと考える。

…こう説明すれば、多少は論理的だろうか。
(スタッフにここまで説明すると、くどいと言われそう…)

※追記:「を」「については」の代用というよりは、主題(Theme、Topic)を指す「は」なのでは、という指摘がありました(参考:『は』と『が』の一歩進んだ教え方。そう考えるほうがより適切かもしれません。とすると、「は」を主題の特定で使うこと自体には問題がないとも言えます。上記を踏まえつつも、本稿では「主語・主体の特定が重要である」ことを論旨とします。

※Facebookにくだくだ書いてみた後に、「こういう時にこそnote使うべきなのか!」ということに気づきました。で、1年以上ぶりの投稿がこの内容…
※画像は、昨年、クラファンで見かけて見た目で即買いしたボードゲーム。魚の駒の種類が豊富、おまけに見た目もかわいくて、テーブルに広げるだけでもテンション上がります。オミクロンが収束したら、またプレイしたい…。

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