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【読書】勅使川原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』【基礎教養部】



はじめに

本書は基礎教養部の活動の一環として、YYさんに紹介していただいた本である。YYさんはnote記事の他に800字書評も書かれているので以下のリンクから参照されたい。

本書のメインテーマとしては、社会では当たり前のように使われている「能力」の概念について問い直すことである。しかし、そうした重たい題材にしては珍しく、母と子の対話形式というスタイルを本書はとっている。この形式を「読みやすい」と感じるか「煩わしい」と感じるかは人それぞれ分かれるところであろう(私は完全に後者の側であるのだが、こうした形式にしか生み出せない表現効果があるのも理解はできる)。

内容に関しても引っかかる点はいくつかあったものの、本書を読む中で「能力」に関する論点をある程度整理できたという部分もあるので、その過程で考えたことを以下では綴っていきたいと思う。

「わかりやすさ」への傾倒

能力という虚構

私が以前書評を書いた本の中で、「能力」という概念について認知科学の視点から検討を加えた書籍がある(以下にリンクを掲載しておく)。

上記の書評においては残念ながら、800字書評の方でわずかに「能力」という概念がもたらすイメージについて触れるのみで、文字数を割いて語ることはできていなかった。そこでこの機会に(簡単にではあるが)、『私たちはどう学んでいるのか』の第1章で語られている、「能力」に関する誤った認識について触れておきたい。

まず大前提となるのは、人間の知性(認知過程)は、文脈やその知性が発現する環境に依存して、絶えず揺らいでしまうものであるという事実である。これは、ペーパーテストなどを行うことで正確に測ることができる(少なくとも他の技能よりは測りやすい)とされている、論理的・数学的思考力にさえも当てはまる。実際、問題の本質的でない情報(=文脈)に左右されて、本来的に持っている思考のリソースをうまく使えたり使えなかったりすることが示されている。

しかし、我々はこうした「能力」が、求められた時には必ず動作するような機械の機能と同じように、個人の中に内在する安定的なものであるという認識を暗黙のうちに共有している。それは、テストの結果に応じて手に入るかどうかが決まる学歴や資格などが、本人の資質を判断するものとして重要視されている現実を見れば明らかなことであろう。

このように、共通認識としての「能力」概念と、実際の知性のあり方との間には乖離がある。そしてその原因は、人の知性という目に見えない現象を理解する際に「力」という不適切なメタファーを用いているからであるという。すなわち、人間の認知過程という極めて複雑で直接観察できない現象を、それが「安定的」で「個体(個人)に内在」しているという暗黙の仮説の下で、性質が似ている「力」というメタファーを用い、概念としてわかりやすいイメージを「能力」という単語に固定しているのだ。

しかしながら当然、こうした仮説は人間の知性の実態にそぐわない不自然な仮定であり、それゆえに、「能力」という概念は虚構に過ぎない。本記事の表題となっている勅使川原氏の著書の中でも、転職などによって環境を変えることだけで、個人の「能力」とされるものに対する評価が大きく変わってしまうという事例が挙げられているが、それは人間の認知機能の性質を考えれば当然起こるべき事象であると言ってよいだろう。

安易な「わかりやすさ」に飛びつくことの危険性

「能力」という言葉が、実体のないある種の幻想を指し示したものであることをみた。ではなぜこの漠とした概念がここまで広く社会に浸透してしまったかというと、それが極めて「わかりやすい」ものであり、実社会を回すのにも便利だからである。

「私」には意識(自由意志)があって、その判断に従って行動している、という素朴な感覚は、多くの人にとっては当然のものとして認識されている。それと同様に、各個人の中には「能力」が内在しており、その程度によってパフォーマンス(行動の出来不出来)が決まるという考え方は、素朴な意識感覚に合致するがゆえにすぐに受け入れることができる(=わかりやすい)ものである。

さらに、「個人に内在する能力」という仮説は、社会の資源配分の問題を容易にする。ここで採用される「『能力の高い人』により多くの報酬を与える」というシステムは、能力への素朴な信仰に裏付けされた正当性を纏うため、不平不満が出づらく、出たとしても「あなたには能力が足りない」という一言を言うだけで済む。能力主義の隆盛を支えるのは、資源配分のような社会的難題に対し、説得力のある(ようにみえる)回答を与えてくれるからでもある。

しかし、安易に「わかりやすさ」を求める態度は危険である。このことは、こちらも以前に書評活動の一環として執筆した以下のnote記事の中でも触れている。

実際、能力という概念が人間の知性を正確に捉えたものではない以上、その幻想に基づいた判断の正当性というのは非常に疑問である。特に、仕事上の失敗などの社会においてネガティブな影響をもたらす事象に対し、その要因を個人の「能力」の問題として内面化し、責任を押し付けるという行為が茶飯事となることが想定される。現実問題、当人を取り巻く複雑な環境要因を無視して、社会における失敗は「当人の努力不足」や「自己責任」であるとする論調は多く見られるように思う。しかしながら、ある問題について、すぐに「〇〇が悪い」と結論づけられるほど物事は単純ではない。一見して因果関係が明確に思えるような事象であっても、実際には複雑な要因が絡み合って生じたものであることが多々あるが、それを「(1つの)原因と結果」という単純な図式で考えてしまう(そしてそこで思考が止まってしまう)のは、人間の認知的限界から生じるある種の業と言っても良いのかもしれない。

客観性の落とし穴

複雑な物事はどこまでいっても複雑である。しかし、人が処理できる情報の量には限りがあるため、複雑なものを複雑なまま扱うことはほとんどの場合不可能で、結果として人はその逃げ道としての「わかりやすさ」を指向してしまう。そうした意味では、客観性の追求(データを用いた主観の排除)も、上述のような思考停止状態と表裏一体の関係にあると言える。

データというものは、そもそもそれを集める段階で、その指標の上に乗らない情報はすべて切り捨てられている。また、データを分析することで何らかの規則性、傾向が見られたとしても、ある特定の状況、あるいは個人に対してそれが当てはまるとは限らない。もちろん、データを用いた最適化によって社会の効率性が向上しているのも確かではあるが、それがすべてと捉えること(これは言い換えれば効率性至上主義と言える)は、世界を構成するあらゆる複雑性に対する配慮の放棄と言ってよい。

私自身、統計学などのデータを扱う学問領域を専攻しているので、自戒としての役割も兼ねて、こうしたことを改めて文章としている次第である。

本書の限界と失敗

ここまで簡単にではあるが、「能力」という概念について、関連する論点と共に検討をしてみた。ただ、表題にある本の書評という観点からすると少々ズレてしまっているので、ここからはそちらの方に戻ろう。

勅使川原氏は本書の中で、能力主義の根源(≒わかりやすさへの傾倒)について、表立った指摘こそしていないものの、その関係性を示唆するような対話を展開している(本書の第9話を参照)。また、能力主義に対する解毒剤として、自身の専門とする分野や実務経験等も踏まえ、「環境」や「人間関係」の調整という視点や、複雑な現実と向き合う中で生まれる「葛藤」を受け止め、それと付き合っていくという生き方を提案している(主に第8,9話を参照)。

しかしながら、能力主義という大木の最も根深い問題点は、それが学校教育や仕事場などの社会システムの中に不可逆に組み込まれてしまっているところである。これを根本から見直すことを目指すならば、深く根付いた「能力」概念を取り払うための新たな社会システムの構想にまで踏み込む必要があるだろうが、本書ではそれに触れることすらできていない。もちろん、環境や人と人との関係性への働きかけを個別に調整するというのは、各個人の問題を解決するにおいて一定の効果はあるはずであるが、それはやはり対症療法でしかないという限界がある。

断っておきたいのは、本書がそうした能力主義の根本的解決を目指していないことを批判したいのではないということである。本書が対象とする読者層は、抽象的・理想的な社会思想の構築ではなく、あくまで「自分」の問題を解決したいという人々だと考えられるので、そうした意味で、本書をこういった形式・内容にしたことは全くもって正しい選択であろう。

私が問題と考えているのは、「能力主義はそう単純ではない」「本書の内容だけでは不足である」ということを注意点として断っていないことである。本書を読んだ読者がそこで「救われた」と感じるならそれは歓迎すべきことであると思うが、一方で、その時点で考えるのをやめてしまう人も多いのではないか。しかし、それでは「能力」について扱った本書を読んだ意味は全くないと言ってよい。結局、本書は能力主義の「最も複雑な点」について触れておらず、表面的な「わかりやすい」解説に終始しているからである。読者が自らそれに気づいて自発的に調べようとしない限り、能力主義につきまとう問題の構造──「わかりやすさ」への傾倒──は繰り返されることになる。

個人的には、著者の経験を活かしたより専門的な書籍を期待したいところではある(闘病中とのことで、難しいかもしれないが)。本書についてもせめて、より深く思索を巡らせたい人向けの「能力主義について考えるためのブックガイド」的なものくらいはあってもよかったのではないかと思う。

おわりに

批判的なことも述べたが、自分の中にある論点を整理するのに役立ったという意味で、本書を読むことに意義はあった。しかし、複雑な世界を複雑なものとして受け入れた上で生きていくことは可能なのか、こうした問いに対する答えを出すには、本書を読むだけでは全くもって不足と言わざるを得ない。この問題意識を常に持ち続けていきたいものである。

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