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【読書】「教養」とは何か──レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』【基礎教養部】

本記事は「ジェイラボ 基礎教養部」の活動の一環です。
簡潔な書評(800字書評)は以下のサイトからご覧ください。


はじめに

「教養」とは何か。構造としてはシンプルな問いである。しかしこれを自分の言葉で語るというのは相当に難しいのではないだろうか。実際、「教養」という言葉の意味合いが非常に曖昧であることは、タイトルにも付した書籍の記述を引くまでもなく多くの人から同意が得られるはずだ。曖昧であるからこそ、教養は「明日からすぐに使える教養(=ファスト教養)」として、ビジネス書やソーシャルメディア上で大衆化されている。それはそれで1つの教養の形なのかもしれないが、その中に明らかな事実誤認や過度な単純化もあるとすれば、無批判に乗っかるというのも相当に違和感のある話である。

話は変わって、私はジェイラボというコミュニティーの「基礎教養部」の活動の一貫として本記事を書いている。ここでもやはり「教養」という概念が用いられているが、上述の(ファストな意味での)教養とは幾分趣旨が異なるようである。ジェイラボにおいて、そのメンバーは基礎教養部部員として書評提出が必須となっているが、そもそも何のためにこのような活動を行うのか。教養について扱った書籍──本記事のタイトルにもある『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(以下『ファスト教養』と書く)──を読んでいて、活動の意義について自分なりの解釈を言葉にしておいた方が良いだろうと感じたので、この機会に考えたことを記録しておこうかと思う(『ファスト教養』の簡潔な紹介は800字書評の方に譲る)。

ファスト教養と自己責任論

さて、まず「教養とは何か」に対しある程度明確な説明を与えるために、対になる概念としてのファスト教養が内在する思想について、簡単にではあるが触れておきたい。同じ「教養」で括られている「ファスト教養」が果たして「教養」の対概念なのかという指摘はありそうだが、前者は「何か(特に金儲け、ビジネス)の役に立つ」という価値判断が大前提にあり、そのために仕入れる知識は「全体像が分かりやすく、シンプルであればあるほど良い(なぜならその方がコスパがいいから)」という考え方をしていることが多い。よって、少なくとも古典的な意味での教養の在り方──深く体系的な知識を身につけることを志向し、たとえ役に立たなくともその学び自体を大切にする──とは真逆といって良いだろう。これを踏まえると、議論の出発点としては比較的適切かつ分かりやすいものであろうかと思う。

ファスト教養には、先ほど述べたような考え方を背景として、「即効性」「シンプルさ」が求められる。単純かつすぐに役立つこと。これらを志向することの弊害は、何も普遍性に乏しかったりバイアスのかかっていたりする知識を仕入れてしまう恐れがあるというばかりではない。これはある種の副次的な弊害であり、そもそもファスト教養を志向せず地に足をつけて学ぼうと思っていても、完全には避けられないものである。問題はそうした結果にあるのではなく、むしろファスト教養を「志向すること」自体によるところが大きい。それはすなわち、自分が不要だと判断したものを躊躇いなく切り捨てる態度を助長してしまう可能性がある、ということである。

ファスト教養においては、先ほど述べたように「何かの役に立つ」という教養に対する価値判断が先にある。しかもその判断基準は極めて一元的──ビジネスであれば「どれだけお金を稼げるか、あるいはそれに直結するか否か」で決まってしまう──であるために、そこから漏れた価値観が拾われることはない。本来、ビジネスに直接役立つ知識や学問など、全体から見ればほんの一部に過ぎないはずだ。それを一律な価値基準の下で、役に立つ形になるよう無理やり「近似」し、そこから外れたものは「例外」として切り捨ててしまう。だからこそ、ファスト教養の過剰なまでのシンプルさ(分かりやすさ)が保たれるわけだが、逆に言えば、それを志向する態度は、例外的なものに対する配慮──言い換えれば、異なる状況や立場などに対する想像力──を捨てた先にある振る舞いなのである。

こうした想像力の欠如は、現代の日本に蔓延る自己責任論とも密接に関わっている。ビジネス等の競争の場では、社会から認められる結果を出すためには努力しなければならない。みんなが成功するために努力している。ならばお前が成功できないのは努力が足りないからだ。努力もしていない奴が社会から救済されないのは当然。自己責任だ──。そうした考え方は、現代、特にソーシャルメディア上においてかなり大きな影響力を持っていると思われる。しかし、生まれ育った環境やその人の性向などの複雑な要因を無視して、全てを「努力」「自己責任」に押し込めてしまっても良いのだろうか。人間は一人一人が「例外」の塊であるにも関わらず、金銭などで数値化可能な結果を生む「能力」のみに着目し、そこに乗らないものを切り捨ててしまうのは、あまりに他者への寛容さを欠いた、窮屈な考え方なのではないだろうか。

教養とは何か、そしてファスト教養とどう向き合うか

上述したことを逆に考えれば、欠けてしまった想像力を回復し、育てていこうとする姿勢を「教養」と呼ぶことができるだろう。「教養」と言えば具体的な学問体系を思い浮かべる方が多いのではないかと思うが、ここではあえて、学びによって得られる知識そのもののことではなく、学ぶことによって様々な事物に対する配慮を育みつつ、自分自身の在り方を見直そうとする態度を指すことにしたい。

「すぐに、直接役に立つ」とは異なる価値観のもとで、複雑性(難しいこと)を恐れずに学ぶ。それは言い換えれば、学びの「偶然性」に心を開くということでもあり、その延長線上に「私は私でなかったかもしれない」という「自分という存在の偶然性」の認識が開かれる。そして、こうした精神、想像力を培うことが、現代の過剰な「自己責任論」の鎮静剤になりうる──。

──と言ってみたは良いものの、現在進行形で競争の波に飲まれて四苦八苦するビジネスマンをはじめとする現代人が、こうした(ともすれば暇人のものと捉えられかねない)考え方に基づいて自分の行動を変えるというのは並大抵のことではない。『ファスト教養』でも、そうした「忙しいビジネスパーソン」に向けて、ある程度現実的な観点からの意識付けくらいは提案しているが、それすらも頭の片隅に残る程度で実践されることなく終わってしまうのではないかと感じられる。個人で競争社会という大海の波に抗うことは極めて難しいのである。

では完全に「詰み」なのかというと、そうではなさそうである。個人という最小単位で出来ることは限られているが、かといって競争市場が介在する大きすぎる経済圏に身を任せるとバランスが崩れてしまう。であれば、その中間の「小さな集団」で「教養」を実践すればよい。ここでようやく話が冒頭に戻るのだが、ジェイラボの「基礎教」(ひいてはジェイラボ全体)の活動の意義はここにある(と、私は勝手に考えている)。ジェイラボは、インフルエンサーの主催するオンラインサロン等とは比較にならないほど小規模なコミュニティだが、だからこそ、参加者同士の「顔がわかる」形で、それぞれが地に足のついた「教養」を実践する環境を作り上げることができている。この記事も、そうした環境の手伝いがあって書くことができたものである。

こうした活動は、社会全体という巨大なコミュニティから見れば極めて小さな灯火に過ぎない。しかし、もし同じような理念に基づいた小空間が無数に出現すれば、不安と焦燥感の蔓延する社会を照らす灯りとなるのではないか。私がこうしたことを考えるようになったのはつい最近のことなので、あまり偉そうなことは言えないのだが、そうした小さな空間が増えていくきっかけになればいいな、というささやかな望みを持って活動に取り組んでいる。

結びにかえて──『ファスト教養』を読んで

とりとめのない話になってしまったが、『ファスト教養』を読んで考えたことを綴ってみた。詳細は紹介しなかったが、本書は「教養とは何か」といったこと考えさせてくれることに加え、社会全体の潮流に目を向けるきっかけにもなる。ファスト教養について問題意識を持っている人はもちろんのこと、今の時代の空気になんとなく違和感を覚える、しかしそれを明確に言語化できるわけでもない、という人にも読んでみてほしいと思う。

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