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2020.9.23 トゥーシューグアンの窓

カウンセリングルームには窓がない。

総合病院の中でもおそらく1、2を争うほどに静かな精神科の待合室、その先にある清潔で小さなカウンセリングルームに、私はもう1年以上通い続けている。2〜3週間に1度、臨床心理士の先生と1対1で話すカウンセリングの50分間のためだ。先生は40代くらいの女性で、いつも少し微笑んでいるような、少し悲しんでいるような絶妙な表情で話を聞いてくれる。

最初にカウンセリングに行ったのは山田が死んで1週間ほど経った時だった。私は疲れ果てていて、苦しんでいて、怯えていて、そして混乱していた。でもカウンセリングなのだから何かを頑張って話さなければ、という謎の生真面目さを発揮して、言葉を絞り出した。順序立てて、伝わりやすい言葉を選んで、目の前のこの人が出来るだけ不快にならないように。絞り出す先から涙が流れ、どんどん息苦しくなった。自分の身に起こったこと、今まで感じてきたこと、言葉にして伝えるということはそれをもう一度追体験する行為だった。

最初の3回くらいのカウンセリングの後は、いつも苦しさが増したような気がした。病院の会計カウンターに向かって重い体を動かしながら、このまま一歩踏み出すごとに床にめり込んでいって、やがて形がなくなって床に同化してしまうんじゃないかと思った。むしろこうして歩いているよりも、ひんやりとした冷たい病院の床になってしまいたい。その方が多分、いくらかマシだろうから。

わざわざ苦しみに行くようなカウンセリングに、なぜ通い続けたのかとも思うが、私はその状況から抜け出せそうな方法を他に知らなかった。もしかしたら、たまらなく不安な夜中の3時に、思い当たる人に片っ端から電話をかけて、語って泣き喚けば良かったのかもしれない。幸いなことに付き合ってくれそうな友人は何人も思い浮かんだ。だけど、私の状況や解決のしようもない暴風雨のような苦しさに、優しい友人たちを巻き込んでしまうことが怖かった。臨床心理士の先生は、私の状況がどれほど悲惨に見えようと、私の悲しみや苦しみがどれほど深かろうと、傷つくことがない。それは、その時の私が取り得たコミュニケーションの中で、とても重要なことのひとつだった。

「どうでしたか?」
50分間のカウンセリングは先生のこの一言から始まる。私は前回のカウンセリングからこれまでの日々のことをゆっくりと思い出す。どうもこうもないよ、苦しいだけだ、と怒りを感じたこともあった。ただぽっかりと時間の空白だけがあるようで、何も思い出せない時もあった。いくつかあった楽しい瞬間を思い出して、話を出来る時もあった。先生はアドバイスしたり何かを語ったりは別にしない。ただ頷きながら話を聞き、時折話の要点を小さくまとめて、私に差し出す。あぁ、この部屋は、先生は、その時の私をそのまま映す、鏡のようなものなのだ。

産後の体力の回復、様々な複雑な手続きの終わり、子供達の成長、友人たちと過ごす時間や会話やLINEのひとつひとつ、仕事への復帰。どれがどう作用したとは簡単に言い難いが、カウンセリングの回数を重ねるごとに、少しずつ落ち着いていったと思う。私にとってカウンセリングの時間は、冷静に状況や感情をまとめて話す訓練のような場になっていった。近いような遠いような微妙なラインを辿り、感情に翻弄されないための、綱引きのような先生とのコミュニケーション。例えば、映画を観たことは話しても、その映画のどこが気に入って、どんなところが素晴らしかったか、と言うことについて詳細は語らない。心が嵐にさらわれないように、慎重に。よしよし、ここまで話すのは大丈夫。

だからなぜあの日、いつもより少しだけ多く語ってみようと思ったのかは分からない。時が来たのか、何かが背中を押したのか、スイッチは思いも寄らないところに潜んでいる。

「そうですね、この3週間かぁ。ちょっと自分も子供も体調を崩したり、浮き沈みはあったんですけど、割と落ち着いて過ごしていたと思います。子供と一緒に友達と遊びに行きましたねぇ。あと電話したり、何人かでスカイプで話をしたりしてます。あ、子供と同じ保育園のお母さんが声を掛けてくれてお家に遊びに行ったりしました。気分転換?あ、そうですねそういうのは気分転換になります。それからこれまで全然会ったことない人と話たりもしました。そんなこともう出来ないと思っていたからめっちゃ嬉しかったです」

「あとはー、久しぶりの友達からメッセージが来たりしましたね。えっ、内容?えーっと、その子は最近チャイナドレスとかアオザイが欲しいなと思ってるらしいんですけど、いろんなサイトを見てたら、チャイナドレスとかアオザイとかを見るたびに私に似合いそうだなーと思い出してくれたみたいで。そのことを知らせてくれたんです。そうです、チャイナドレスってあのチャイナドレス。アオザイは、そうそうベトナムのやつです」

「あ、それで思い出したんですけどね」

「私、大学の時の専攻が東洋史学だったんですけどね。卒論はチャイナドレスのことを書いたんですよ。そうなんです、結構面白いんですよ奥が深くて。でね、東洋史学って基礎みたいな授業では、まずはめっちゃ漢文読まされるんです。いきなり漢字だけがバーっと並んだ古文書的なもののコピーを渡されて。じゃ、次回の授業までにここまで訳して来てね、って。漢字っていっても今の日本の漢字とは違うものも多いし、訳せって言われたって全然意味分からへんのですよ。あと漢字って一文字にめちゃくちゃ色んな意味があるから、正確に漢文の意味を読み取るためには一文字ずつ、辞書で調べるんです。そうそう、それはもちろんめちゃ時間かかりますよ。しかも普通の漢和辞典には載ってないことも多いから、13巻もある『大漢和辞典』っていう辞書で調べるんです。これ、1巻が広辞苑くらいの厚さがあって、デカイし重いんですよね〜。それが置いてあるのが研究室と、大学の図書館だったんで、いつもどちらかで課題をやってました。図書館のその辞典がある辺りは、いつも結構空いてて、広々机が使えるから好きでしたね。静かだったし」

「あ、図書館のことはね、中国語で”トゥーシューグアン”って言うんですけど…」

”トゥーシューグアン”

その響きを口にした時、自分でも全く予期していなかったことが起こった。引力に引っ張られるみたいに、突然に涙が溢れ、パラパラと頬の上にこぼれた。こぼれた涙はおさまることがなく、やがて私は声を殺して泣いていた。あれ?おかしいな、なんで私、泣いてるんだろう。降って湧いたような感情の波に押し流されながら、自分が泣く理由を探した時、大学の図書館の窓に映る、二十歳そこらの自分が思い浮かんだ。


她在哪?ター ツァイ ナァ?
(彼女はどこにいますか?)
她在图书馆。ター ツァイ トゥーシューグアン。
(彼女は図書館にいます。)

大学に入学して選んだ第二外国語の授業、中国語の先生が読み上げたその例文の「トゥーシューグアン」と言う響きは懐かしくも新鮮に私の耳に届いた。今まで知っていた「としょかん」が「ライブラリー」になる英語の世界とは違う「としょかん」が「トゥーシューグアン」になる似て非なる世界。その言葉の響きは私のお気に入りになり、大学の図書館のゲートを通る時(正確に言えば、その図書館は情報センターと言う名前の巨大な建物だったのだが、それでも)いつも心の中で唱えた。
「トゥーシューグアン!」

13巻の「大漢和辞典」が並んだ低い本棚の近くの席が私の定位置だった。机の上にノートと漢字が並んだコピー用紙を広げ、重い辞書を重ねて本棚と席の間を行き来する。辞書を引いて、一文字、二文字、意味を与えられた文字は、やがて連なり一つの文章になる。一文、二文、並んだ文章の輪郭を辿れば、そこに今よりはるか昔の、ここではない国の物語が浮かび上がる。ただの文字が物語に化ける、その瞬間が好きだった。

途中、眠気に襲われて、思わずノートの上に突っ伏して少しの間眠ってしまう。目を覚ました時、ノートの上に置いていた腕にはシャーペンで書いたノートの文字がコピーみたいに転写されている。課題の全てを訳し終える頃には、もう遅い時間になっている。辞書を本棚にしまうとき、ふと顔を上げてみた窓。もう暗くなっていて、外の景色は見えない。その窓にはただ、図書館の明るい蛍光灯に照らされた、私の姿が映っている。

ああそうか、私、こんなところに、いたの。

全部、なくなったような気がしていた。私は素晴らしい人間だとは言い難いが、それでも、様々なことを選んだり選べなかったりしながら、出来ることをやって、真剣に人生を歩んできたはずだった。家族をつくるというのは中でも大きな決断だったが、自分の手で選びつくってきた、穏やかな幸せのようなものが、続けばいいなとぼんやり思っていた。それがそれほど大それた望みだったは思えない。ところがある日、夫の死というものが背後からやって来て、突然巨大な金槌みたいなもので、私を粉々に砕いて去っていた。去り際に一言、言い残して。「残念でした。君の人生は”NO”です」

目の前に現れた巨大な”NO”を前にして、私は自分がどんな人間だったか全く分からなくなった。粉々になった私はそのまま風に吹かれて消え去るのかと思ったが、違った。あの人が、この人が、私の代わりに粉々の欠片を拾い集めて、あるべき場所を教えてくれた。それはあの図書館で並んだ漢字の意味を一文字ずつ探る作業にも似ていた。大きな欠片、小さな欠片、拾ってもらった欠片の手触りを確認しながら、私はゆっくりと思い出す。私は連絡をするに足る。私は共にご飯を食べるに足る。私はいたわり合うに足る。私は微笑み合うに足る。私は語り合うに足る。私は笑い合うに足る。私は、私は、私は…。欠片をつなぎ合わせたところで、以前と同じ形になることはもうない。だが何とか繋いだその欠片たちは、ある時以前とは別の物語に化ける。最も単純かつ複雑な「私は生きるに足る」という物語に。

なんとか形にした物語の尻尾を握りしめて、私はあの日の図書館の窓に飛んだ。もし窓に映る20歳の私に話しかけることが出来たなら、きっと肩を抱いてこういうだろう。ここにいてくれて、ありがとう。どうか幸せに、なってね。

静かなカウンセリングルームで涙を全て流し終わったあと、これまで何度も聞こうとして聞けなかったことを口にした。
「このカウンセリングは、いつまで通えばいいですか?」
先生は微笑んで答えた。
「山田さんが終わっていいと思ったところから、ゆっくり終わっていきましょう」

2〜3週間のスパンで通っていたカウンセリングの次の予約は2ヶ月後になった。少しづつ期間を開けながら、やがて終わる日来るのだろう。あの鏡のような時間がなくなってしまうことは少し寂しく、また不安でもあるのだが、その代わりみたいに、私の欠片を拾って見せてくれた、ひとりひとりのあなたのことを思い出す。

もしまた私が自分のことを見失ったら、勇気を持ってあなたの窓をノックする。そうしたらどうかそっと窓を開いて、私の居場所を教えて欲しい。その時にあなたが微笑んでいてくれたら、これほど嬉しいことはない。答えるのが難しい時の為に、例文をひとつ置いておく。この通りに答えてくれたらきっと、私はあの図書館の窓にまた、辿り着けるだろうから。

我在哪? ウォ ツァイ ナァ?
(私はどこにいるかな?)
你在图书馆。ニィ ツァイ トゥーシューグアン。
(あなたは、図書館にいるよ)

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