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堀辰雄のプルーストについての言及まとめ

堀辰雄の随筆作品において、マルセルプルーストについて言及していて個人的に興味深かった箇所と、小説作品においてプルーストの文体の影響が顕著だと思われる箇所と、堀辰雄の研究書においてプルーストに言及している箇所を、書き写しました。細かい部分では本文と異なるところが多々あると思いますが、自分用に読み直せるように書き写したものなので、ご了承ください。参照した全集は『堀辰雄作品集 角川書店』です。

写真は信濃追分にある堀辰雄の書庫


「時間の見えざる実在、それを私は孤立させようと試みるのだ。そのためには経験が持続してゐることが必要だ。」(三巻『プルウスト雑記』)

「汽車がうねりくねった線路を走っている間、或る時は右に、或る時は左に見える、あの小さな町の中にでもいるように同じ人間が、まるで入れ代り立ち代り現れてくる別々の人間であるかのように読者に印象されてくるほどの、ひとつの人間のさまざまな姿は——その為にのみ——時間の過ぎてゆく感じを與えるのだ。」(三巻『プルウスト雑記』)

「つまり現実の中でも屢々起こることであるが、いま自分の前にいる一人の人間が、ちょっと時間が経ちさえすれば、それとはまるで異なった人間のように印象されてくることがある。それがわれわれには如何にも時間の過ぎつつあることを感じさせる。——プルウストはそういう「強いほとんど無意識的の印象」に目をつけて、それを彼の人物を描く方法に取り入れたのだ。」(三巻『プルウスト雑記』)

「私には、有意志的記憶——それは就中理智と眼との記憶だが——なるものは、過去の真実ならざる面をしか與えてくれないように思える。が、昔とはまったく異った現実の下で、ふと思い出された或る匂いとか、或る味とかが、思いがけずわれわれに過去を喚び起すときは、われわれはそういう過去が、われわれの有意志的記憶が下手な画家のように真実ならざる色彩をもって描いた過去とは、如何に違異しているか理解する。」(三巻『プルウスト雑記』)

「たとえばプルウストがその長大ないつ果てるとも知れぬ持続性をもつ文章によってなした仕事とは対蹠的に、個々の短い章がそれぞれの短さにもっともふさわしい内的感動と認識の結晶作用をなしており、その章をいくつも積み重ねることによってのみ達しうる認識の純化の方に作品行為のほとんどが傾注されている」(田中清光『堀辰雄魂の旅「風立ちぬ」文京書房)

「かう云うやうな風景を今私は生れて初めて見るのにはちがひないが、なんだか今までにもこれとそっくり同じ風景を何処かで見たことがあるやうな気がしてならぬ。私はこれとそっくり同じ風景を誰かの絵ででも見たのか知ら。それとも私は夢の中ででも見たのか知ら。——と、かういう時に誰でもがなるやうに私もちょつと感傷的になったが、私はふと、それらのすべては私の疲労のせゐではないか知らと思ひ出した。何時だったか物の本で、「視力が疲労する時は物体が空間の中でと同じように時間の中でも二重に見えて来ることが屢々ある」と云ふような意味のことを読んだ時、前者の場合のやうなことは、——都会でよく疲れ切って狭苦しい喫茶店などの、居心地のわるい椅子に腰を下ろしてゐる時など、そこの壁にかかつた額縁だの、花瓶だの、茶碗だのがぼんやり二重に見えてくるやうなことは自分の経験では知っていたが、——今のやうなかう云ふ、ふと思い出せさうでゐて妙に思ひ出せないやうな風景の感じは、この云ひ知れず切ないやうな感じは、或いはその後者の場合のやうに、すべての事物が時間の中でぼんやり二重になつて感じられて来るのではないだらうか。」(三巻『馬車を待つ間』)

「眠りから醒めた瞬間、いま夢みてゐたばかりのごたごたした不確かな事物の間から、一つの像——たとへば一つの女の顔だけが、私の目にありありと残ってゐる。そしてその不思議な美しさが、私に以前から彼女に対して抱いてゐる愛をその時はじめて気づかせるやうなことがある。」(三巻『覺書』)

「プルウストは人間を植物に同化させる。人間を植物フローラとして見る。決して動物フローナとして見ない。」(三巻『フローラとフォーナ』)

「さうして一めんに生ひ茂った雑草を踏み分けて行くうちに、この家のかうした光景は、数年前、最後にこれを見た時とそれが少しも変って居ないやうな気がした。が、それが私の奇妙な錯覚であることを、やがて私のうちに蘇って来たその頃の記憶が明瞭にさせた。今はこんなにも雑草が生い茂って殆んど周囲の雑木林と区別がつかない位にまでなってしまって居るこの庭も、その頃は、もっと庭らしく小綺麗になってゐたことを、漸く私は思ひ出したのである。さうしてつい今しがたの私の奇妙な錯覚は、その時から既に経過してしまった数年の間、若しそれらがそのまま打棄られてあったならば、恐らくはこんな具合にもなってゐるであろうに……といふ私の感じの方が、その当時の記憶が私に蘇るよりも先に、私に到着したからにちがひなかった。しかし、私のさういふ性急な印象が必ずしも贋ではなかったことを、まるでそれ自身裏書きでもするかのやうに、私のまはりには、この庭を一面に掩うて草木が生い茂るがままに生い茂ってゐるのであった。」(四巻『美しい村』)

「散文の本質といふものは、自分の考えをどんな風にでも構はずに表現してしまふところにある」(四巻『リラの花など』)

「いきなりアスパラガスの描写を始めずに、先ず田舎家の台所に這入りこんだ少年の「私」が、テエブルの上に転がってゐる豌豆を見ようと思って立ち止まりながら、それからふとその傍にあったアスパラガスに目を止め、思はずそれにうっとり見入る風に運ばれてゐます。さういふ不意打ちによって、その少年のみならず、読者にもそのアスパラガスの美しさを一層生き生きと感じさせる。——かう云ふところにも、プルウストの常套的な手法の一つがあります。(四巻『リラの花など』)

「一瞬の感覚から、すぐその場で、何か永久性のある精神的なもの(これこそ本当の現実なのでありますが)を抽き出さうとする困難な仕事」(四巻『リラの花など』)

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