耕治人について

 作家耕治人は明治三十九年(1906年)、熊本県八代に生まれ、詩人として出発し、昭和十三年以降は小説をおもに書いた。
 その作風は私小説で知られる。私小説とは日本独自の小説形式であり、その定義は諸論あり明確ではないが、一般的には、その小説の作者、その身内などが、本人または本人をモデルにした人物として、作中に登場する小説作品のことをさす。
 (一人称でかかれる私小説の場合、その書き手と、作中の語り手は、同一と見てもいいほどに限りなく近いものでありながら、フィクションであるという線引きを境に完全に同一ではない。)
 (私小説の定義はあいまいだが、しかし小説など文芸作品にかぎらず芸術活動というのは、つねに既存の定義や枠組みなどをとび超えてゆくものであり、つねに更新されるものであるため、そういったアプローチの仕方自体が適切でないのかもしれない。)
 私小説の代表的な作家として、明治では田山花袋や徳田秋声や島崎藤村、大正なら志賀直哉、昭和なら太宰治といった作家があげられ、そして室蘭出身の八木義徳もそのうちの一人であり、その作品のほとんどが、私小説として読むことができるものである。
 耕治人の創作活動における姿勢が最もよく表れている例として、「作品は、すべてテーマが向こうからやって来た。私は私小説を書いているが、これらの作は、書くことを探してできたのではない。向こうかややってきたものを、書くべきときに書いた」という文がある。これは私小説を書く作家の創作作法というものをよく表している。「いつも前を見て、わけのわからない方向へ向かって書いていく、それが小説です」とは、大江健三郎の言葉であるが、耕治人のそれとは対照的である。
 自信が経験したことを、書くべきときに、そのまま書く。この姿勢は、日記を書く姿勢に似ている。私小説と日記は似ている。日記文学は平安時代から日本では盛んであり、『土佐日記』『蜻蛉日記』などあるが、そうした日本の日記文学の血を受け継いでいるという点においても、私小説が日本流のものであるということがいえるのではないかと思う。

 耕治人には、『命終三部作』とよばれる、『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』という三作がある。
 この小説の主人公は昭和後期の貧しい老夫婦で、語り手であり小説家であるが稼ぎの少ない「私」と、これまで一家の稼ぎ手として私を支えてきた「家内」。あることがきっかけで、家内の脳軟化症(認知症)が急速に進行し、これまでなにもかも家内に頼りきりだった私は、突然世間に放り出される。

 『天井から降る哀しい音』では、料理が好きだった家内が、買い物の途中でよく買ったものを店に忘れるようになり、そして料理の際中にふとガスを止めるのを忘れ、あやうくボヤを起こしかける。
 『どんなご縁で』洗濯ができなくなり、洗濯機を使うこともできなくなった家内が、夜中に粗相をし、その片付けをしている私に突然、「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と言い、その瞬間、私は私と家内のこれまでのこと、私と家内の「縁」についておもいをめぐらす。
 『そうかもしれない』舌の病気で入院した私と、老人ホームに預かられることになった家内。ひさしぶりに介護士につれられて私のもとに訪ねた家内は、ご主人ですよと紹介されたとき、「そうかもしれない」と低い声で言う。

 こうして書くと、あまりに暗くて、救いのない話だと思われるかもしれないけれど、読んでみると違う。どこか語りの文におかしみがあって、とぼけたところもあって、そのせいか悲壮感というよりは、そこを突き抜けたあとの清らかさみたいなものが漂っている。これにかんしては、もう実際に読んでもらうほかない。


 さて、ここではこれらの小説に頻出するキーワードとして、「以前」という言葉をあげたいと思う。
 料理をできなくなった家内をみて、「以前」は四季折々の料理をつくってくれた家内を私は思い出す。急に泣き出して、あたし何もできない、死にたいと言い出す家内の手を握って、ぼくのせいでこんな手になったと私は言いながら、「以前」の家内と私のことを、慰めるように話す。どんなご縁でといわれて、「以前」の家内を思い出し、この私との縁をさがす。
 私はここにいて日に日に衰えてゆく家内を見ながら、いつも「以前」の家内を思い出している。
 この小説は、脳軟化症の妻を扱った作品であるためか、どうも私を認識できず私を忘れてゆく家内のほうに、または家内に認識されず忘れられてゆく私のほうに、目が向けられがちである。
 しかし、私のほうはどうか。
 私は以前とはすっかり変わりはててしまった家内を見つめながら、まるで以前の家内を呼びおこすように、以前の家内の姿を思い出す。それは、以前の家内がすこしずつ私のなかで薄れていっているからではないか。

 じつは耕治人は、かつてにも妻ヨシさんと離れて暮らしたことがあって、それは耕治人が戦前に思想犯の容疑で留置場に入れられたときで(のちに誤逮捕だと判明するのだが)、それは小説『監房』にくわしく書かれている。
 『監房』のなかに、印象深い一文がある。
 「弁当をひろげた。魚や卵や野菜など、家にいるとき食べなかったご馳走が並んでいた。どうしてこんなものを集めたのだろう。家内との強い結びつきを感じた。ここへ入るまでの十何年かの夫婦生活が遊戯にすぎない気がした。」
 家内との強い結びつきを感じた、というところに注目すると、私はしばらくの間家内と離れて暮らして、そうしてようやく会えて目の前に家内のつくった弁当を見たとき、つよくそこに自分と家内の結びつきを感じるのだ。離れて暮らしている間、私のなかから少しずつ薄れていっていた家内ではあったが、こうしてようやく会えたとき、言葉だとかそういうものではない「強い結びつき」として、家内を感じたのだ。

 『そうかもしれない』では、私は家内と離れて暮らしながら、つねに家内のことを思っている。そしてようやく家内に会えたかと思うと、その家内はすでに私を認識できない、忘れてしまっている。けれどもそこで私はまたこれまでの家内のことや、私が家内になにもしてやれなかったことについて、おもいをめぐらし、点滴の身を忘れ、ベッドの上に正座し、老人ホームがあると思われる方へ身体を向けている。

 おそらく、私は私を忘れてゆく家内を見つめながら、じつは以前の元気だった頃の家内を少しずつ忘れてゆく私自身についても、意識的にではないが感じていたのではないか。
 私はもちろん脳軟化症ではないから、家内を認識できなくなるということはない。けれども遠く離れて暮らしているときには、いやそうでなくても目の前にいながらにして日に日に変化してしまう場合においても、私は以前の家内を徐々に忘れてゆく。ひとというのは、どんなに大切なひとのことであっても、つねに少しずつ忘れてゆく。だが、それでも忘れたくない、以前の家内も、そしていまここにいる家内も。そんな気持ちが、これらの作品を、日記にも似た私小説というものを、耕治人に書かせたのではないか。

 耕治人は、ある文章の中で、こんなことを書いている。
 「私は、小説であれ感想であれ、書いているときは一所懸命だ。ところが小説の場合、書き終えると、まるでそれから逃れるように、読み返そうとはしなかった。
 これは私の生い立ちや家族の環境などから来ているように思う。私は、両親ときょうだいを早く失った。みな肺結核だった。そんな自分を忘れたいと思いながら、両親、きょうだいのこと、それに自分のことを書き続けた。まるで、ほかに書くことがないように。それで、よけい早く忘れたかったのではないだろうか。」

 ところで、ひとはどうして日記というものをつけるのだろうか。
 経験したことを、なるべくみずみずしくあたらしいうちに、記録しておきたい。そんな気持ちが働いていることは、日記をつける動機として、まちがいなくあると思われる。
 追憶というのは、一度きりのものである。同じ記憶を思い出しているつもりでも、じつはその記憶は本人でも自覚できない範囲で変化していて、だから思い出すたびにその記憶はあたらしいものであり、一度きりのものである。
 そして、やはり、ひとというのは、時間が経てば経つほど、忘れてしまうものらしい。
 そして、もう一つ付け加えるならば、思い出すということをしなければしないほど、やはり忘れていってしまうものらしい。
 追憶は一度きりのものだ。その記憶はあの記憶ではなくて、ましてやあのときのあのままではもちろんない。でも、それでも忘れたくない、忘れてしまいたくないから、思い出す必要がある。思い出すきっかけとなることはいろいろあるが、その一つに、愛というのがある。
 これら妻ヨシさんと自分の最期を書いた作品でも、耕治人は早く忘れたいとねがっただろうか。

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