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忘れられないあの日のこと

 混迷を極める普天間飛行場の辺野古移設。今月も、工事の設計変更申請をめぐって、大きな動きがありました。
 何か動きがあるたびに、悔しさや不安など、様々なことを感じると思います。今回は、辺野古の埋め立てが始まったあの日に、メンバーがどう過ごし、何を感じたのかを書いてもらいました。90年代生まれが実際に感じた気持ちを綴っています。読んでいただいた「あなた」も、あの日に何を感じたか、教えてくれたら嬉しいです。

あの日見た海

豊島鉄博(94年生まれ 那覇市小禄出身)

 その海の存在を知ったのは、小学校低学年の頃。
 当時は夏休みや年末年始シーズンに、家族で名護市にあるホテルに泊まるのが定番だった。プールで泳いだり、ベランダでバーベキューをしたりと、今振り返っても楽しい思い出だ。

 そんなホテルまでの道中に立てられている看板の文字が気になった。 

 「ジュゴンを守れ!」 

 国の天然記念物で絶滅危惧種のジュゴンの頭上に、ヘリコプターが飛んでいるイラストが描かれていたと思う。「ホテルの近くの海に、基地ができるかもしれないんだよ」と、父親から聞いた。昨日ヤドカリを見つけて遊んだ砂浜の近くの海で、本当にそうなるの? 想像がつかなかった。 

 約15年後の、2018年12月14日。この日、小学生の頃に知った海に、土砂が投入されることになっていた。メディアの仕事に就いていた私は、海上から現場を眺めていた。

 時折海風が吹き付けるなか、午前11時、護岸で覆われた海に、ブルドーザーで赤土混じりの土砂が入れられた。その瞬間、「やめろー!」とカヌーに乗っていた人たちが叫んでいた。あの怒声と、土砂が「ザザー」と積まれていく音は、今も耳から離れない。

◆ ◆ ◆ ◆

 普天間飛行場の名護市辺野古への移設を進めるため、国が5日、「代執行」の訴訟に踏み切った。沖縄から今は離れて過ごしている身としても、やるせない気持ちになった。昨年7月に、ジュゴンのフンが辺野古沿岸部に浮いているのが見つかった、という今年4月に報じられたニュースがすっかり遠く感じる。

 「失われる時の中で、ぼくたちらしさを望むことができるのか」。仕事で何度もお世話になった、編集者の新城和博さんが5日付の沖縄タイムスに寄せた寄稿の一節が、ずしりと響く。

 一方で、新城さんは終盤にこうも記していた。「闇の底においても、一筋のあかりがあれば、ぼくたちは周囲を見渡せることができる」。今のところ、全く解決の糸口が見えない難しい問題。それでも、向き合い続ける必要がある。いろんな人たちに関心を持ってもらうための明確な方法はないが、今回のコラムが少しでも「一筋のあかり」になればいい。

土砂が飲み込む言葉を、再びつむぐために

西由良(94年生まれ 那覇市首里出身)

 その日、私は呆然と海を眺めていた。濁った色の土砂が海に投入される。本当に始まってしまった。グロテスクな光景に思わず目を背けたくなるが、どうしても目が離せない。

 2018年12月14日。辺野古の埋め立てが始まった。そのとき、東京のテレビ局で朝のワイドショーのスタッフとして働いていた私は、スタジオで生放送にあたっていた。

 番組の後半、「辺野古土砂投入開始」が最新ニュースとして飛び込む。CM明けに、辺野古からの中継映像を流すことになった。アナウンサーに向かって、3、2、1とCMが終わる時間を手で伝える。 0と同時に、アナウンサーがいつもと変わらない様子で原稿を読み始めた。放送時間を伝える尺だしは新人が担当する簡単な仕事で、普段は緊張することなんてほとんどないのに、その日の私は、心臓がバクバクして変な汗をかいた。ヘリから中継される映像。淡々と出来事を伝えるアナウンサーの声。番組は普段通りに進行している。

 次のコーナーまでの残りの秒数をアナウンサーに手で伝えながら、モニターで放送画面を見ると、ヘリから中継されている辺野古の海が映し出されている。トラックから土砂が流し込まれた。その瞬間、絶望的な気持ちが襲ってきた。東京にいて、テレビ番組を作っていて、しかも今まさにそのニュースを届けている一員なのに、私はここで黙ってモニターを見つめ、アナウンサーに放送の残り時間を伝えることしかできない。自分の無力さに痛みを感じながら、座り込みを続ける人のこと、死んでいく生き物たちのこと、これまで行った選挙の記憶、県民大会の熱気、それら全てがなかったかのように進んでいく残酷さについて考えていた。

 辺野古の惨状を伝える1分にも満たない時間が、私には永遠に感じられた。徹夜した頭で、ぼーっと悪夢のような映像を思い出していると、いつのまにか番組が終わっていた。これは現実なのか。埋め立てが始まってしまった衝撃を誰かと話したくて、スタジオを見回したが、みな普段と同じように機材の片付けを始めていた。アナウンサーもお疲れ様でした、とひとこと言って去っていった。誰とも目が合うことはなかった。ここにいる誰とも、この悔しさを、この虚しさを、この怒りを共有することはできない。そう思うと、急に気分が悪くなってきた。トイレに駆け込み、ひとりで静かに泣くことしかできなかった。

 あなたの沖縄というコラムプロジェクトを始めたのは、あの悔しさがあったからだ。誰とも話せない孤独感。あの日話したかったのに飲み込んでしまった言葉たち。それがあったから、思いを伝えることの大切さに気づけた。誰かと話しながら、言葉を繋いでいきながらであれば、自分なりに沖縄と向き合い続けられる。

 だから私は、今日も誰かに向けて言葉をつむぐ。言葉を交わせなくなる状態が一番怖いと思うのだ。

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