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オキナワン瓶テージズ ~アメリカ世からのタイムカプセル~

ゴクツブシ(92年生まれ 神奈川県出身)

 僕はかなりの炭酸飲料好きだ。スーパーに寄ると、気が付いたらカゴに1.5ℓのコーラが「乗っかってくる」。映画館に行くと、上映時間がどんなに迫っていても、楽しみの半分くらいが詰まったコーラとホットドッグが乗ったお盆を担いで客席に駆け込む。県民にも観光客にも好き嫌いが分かれるA&Wのルートビアであるが、おかわり無料というお得感も手伝ってか、エンダーでこれ以外の飲み物を頼んだ記憶はほとんどない。そして家に帰れば、数本ではきかない数の空きペットボトルが散乱している。コカ・コーラ、ペプシコーラ、CCレモン、スプライト…見事に炭酸ばっかり。 「骨が溶けるから飲まない方がいい」なんて迷信もどこ吹く風。いつしかその魅力に憑りつかれ、20代にして心とともに前歯の1本さえも奪われてしまった。骨は溶けないが、歯は削られてしまったのだ。哀しきADHD(注意欠陥多動性障害)である。いや掃除しろよ歯磨けよ…。

 そんな折、東盛あいかさんが監督した『ばちらぬん』を観に桜坂劇場へ出向いたときのこと。いつものようにコーラとホットドッグ購入の儀を行っていると、店頭に置かれる1本のガラス瓶が目に入った。なんだか見覚えがある…全身緑のボディだけど酒じゃない。見るだけで涼しそう…。これはもしかして…? お前じゃないか!?

 奇しくも、その頃は勤務先の計らいもあり、あるモノについて調べる機会に恵まれていた。それはガラス瓶…とりわけコーラやサイダー、ジュースなどの清涼飲料水の瓶 である。古い寄贈品や採集品が多く、中には戦後すぐに米兵が捨てていったようなコカ・コーラ瓶まである。家や墓の工事のほか、遺跡の発掘調査でも見つかるらしい。その中に彼はいたのだ。オリオンビールが製造販売している「オリオンサイダー」。調べると沖縄が日本に「復帰」する前年の1971年発売で、瓶のものは81年頃まで販売されていたようだ(缶は88年まで)。あの沖縄海洋博覧会(1975年)の会場でも売られていたとか。5年ほど前から復刻発売され、当時とそれほど変わらないデザインで販売されている。それだけ根強い人気を誇るのだろう。

 ガラス瓶や清涼飲料水について、調べていくうちに、様々なことが分かってきた。戦後の沖縄にはコカ・コーラやペプシコーラが「本土」に先駆けて入ってきたこと。それらに刺激され、島内にも様々な飲料業者ができたことなどなど…。ガラス瓶は、沖縄戦後史の重要なキーパーソンであることを知る。(注1)ボンコーラ、ハートコーラ、サンクスコーラ、ウィンコーラなど 1950年代に興った島内業者のものなどは、影響されたのだろう、コカ・コーラやペプシコーラに似たデザインのものが多い。容量の表記法はmlではなくオンス(fl. oz.)のものも多かった。

「YT」は瓶の製造会社を示す。
これは「日本山村硝子 東京工場」の意。

 「沖縄バヤリース」などの企業が 、「復帰」に合わせて会社が改組されると 、ビンそのもののデザインに加え、容量表記もオンスからmlへと大幅なモデルチェンジがなされたものもあった。まさに時代を映す鏡といえる。朝ドラ「ちむどんどん」には、50~70年代に隆盛を誇った「ベストソーダ」のパロディと思しき「美らソーダ」なる飲料も登場していた。

 ミスターコーラ、ロイヤルクラウンコーラ、ミッション、シャスタ、ミリンダ、キープ、ひばりジュース……県内各地の資料館に行けば、そんな「オキナワン瓶テージズ」 に会うことができる。摩文仁にある平和祈念資料館の「Aサインバー」復元展示には、ワインやウイスキーのボトルとともにコーラ瓶が置かれてもいる。彼ら、彼女らはどこで造られ、売られ、どのような人々に飲まれ、いかなる経緯でここまで来たのであろうか。瓶にも100本あれば100通りの「あなたの沖縄」がありそうだが、一方でやはり米軍統治時代と密接な関係を持つ品々。単に「懐かしい」で片づけることには違和感を拭えない。

 後日、改めて桜坂劇場で「オリオンサイダー」を購入後、それを手に持って歩きながら車を停めていた「てんぶす」の駐車場に戻った。やはり目に留まったのか、係員のおじいちゃんが話しかけてくれる。

「懐かしいねえオリオンサイダー。どこに売ってるの?」

 まさかの元ドリンカーらしき人との遭遇である。会話は決して長くは続かなかったが、この方もまた、瓶テージズに囲まれたアメリカ世を生きてきたのだろう。そんなアメリカ世から甦った1本の復刻品が、ほんの一瞬とはいえ彼とこんな若輩者ないちゃーとの人生の接点をお膳立てしてくれたのだ。

 食いついてくれたことが嬉しくて、ルンルンで家路についた。帰宅し、あとは飲むだけ!と思いきや、しかしこのままでは飲めないことに気づく。炭酸じょ―ぐーな僕も、瓶に関しては初心者ドリンカーであることを思い知るのだ。

 栓抜き、買いに行かなきゃな。 

注1:戦後沖縄とガラス瓶
 戦後しばらくは、コーラ瓶を真っ二つに割り、上半分は風鈴や漏斗、下半分はコップにして使っていた。「復帰」前から、瓶そのものは全て沖縄島外製(多くが日本本土製)であり、飲料瓶を原料に、今日隆盛を極める「琉球ガラス」が発達したといわれる。
沖縄戦後史資料館ヒストリート(沖縄市)にて


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