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ドイツ語で留年したら哲学家になった

昔から物忘れがひどすぎて、1週間に一回ぐらい家の鍵を失くしていた。
人の名前を覚えるのが苦手で、卒業して一年経つと同級生の名前ですら忘れてしまっていた。
予定帳は持っていたがほとんど書き込まないし、仮に書き込んだとしても一生見ないので意味がなかった。

振り返ってみると、「これぞ発達障害のテンプレート!」とでも言わんばかりの学生だったと思う。自覚はあったのだ。
そんな僕が、真っ向から発達障害と向き合うきっかけになった話をしようと思う。

1.ドイツ語選択

多くの大学がそうであると思うが、大学1年生の頃は教養として英語以外の外国語を一つ選択する。僕はそこでドイツ語を選択した。
ドイツは日本と同じ「物作りの国、職人気質の国」だと思っていて、将来的に自分の人生にプラスに働くかもと考えたからだ。

この考え自体は今も変わっていないが、この選択がまずかった。
ドイツ語の先生は2人いたが、どちらのクラスになるかは完全ランダムであり、教師ガチャで1/2を外した結果めちゃくちゃ厳しい先生のクラスになってしまったからだ。

実際に授業を受けてみると面白くはあった。
しかしながらそこは不真面目大学生、そこまで興味のない授業の宿題をやるわけもなし、ましてや1限の授業など出席すらしなくなるのが道理である。
結果、普通に単位を落とした。

2.放送大学

そんなこんなで2年生になるわけだが、ここで少し問題が発生する。
来年度に3年生になるためには2年次までに第二外国語の単位を取らなくてはいけないのだが、2年次からのキャンパスは1年次のキャンパスからバスで片道2時間近くかかるのだ。

そんな時間をかけて、ただ一授業だけのために別キャンパスに行くのも馬鹿らしい。先輩から得た情報によると、"放送大学"なるもので代わりの単位が取れるらしいではないか。何もわからないまま申し込んだ。

1か月ほどして放送大学からな教材が来たので、中を開けて確認する。
テキストや放送大学の資料などを扇状に広げて軽く目を通すのだが、たまたまその時、提出必須のテストだけが教科書と重なってて見えなかった。
放送大学のテストは鉛筆コロコロで解けるという話も聞いていたので、まあなんとかなるだろうと高をくくってその辺にしまった。

その時が来るまで、放送大学の資料が日の目を見ることはなかった。

3.留年確定

2017年の年明けごろ、放送大学から一通の手紙が来た。
書いてあったことは非常にシンプル、「あなたには今期試験の受験資格がありません」だ。

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部屋の隅で埃をかぶっている放送大学の資料にもう一度目を通した。
見つかったのは、最初見たときには影も形もなかった「中間テスト用紙」。
訳が分からず泣いた。親に電話して泣きながら謝った。そんなことをしたところで何も変わるわけでもなく、人生で初めて留年した。

4.二年目の2年生、絶望の日々

一回目の2年生を終え、進級のために必要な単位をドイツ語以外は取り終えたことで、何もすることがなくなってしまった。一週間の授業はたった3コマだけである。忙しいサークルをしていたわけでもないので、日々家とバイトを往復するだけの生活になってしまった。

帰って布団に横になっては「いかに自分がダメ人間か」を考える日々。
夜は3時に寝れればいいほうで、寝れないまま朝を迎えることのほうが多かったように思う。死んだほうがましではないかとすら考えた。

それはそれとして、留年する原因となった「テスト用紙の見落とし」である。冒頭の通り、小さいころから忘れ物や落とし物が多かったり、何かを失くしたりする自覚はあった。軽度の発達障害であれば実生活に支障はないらしいと知ってここまで真剣に考えてこなかったが、留年しているのに実生活に支障がないは無理がある。

5.ウェスクラー診断

このままではまずいと考え、大学の支援センターに行った。
カウンセリングをしてくれた先生はとても優しくて、僕の話をきちんと聞いてくれた。そのうえで、一度大学病院で診てもらうことを勧めてくれた。

大学病院に行き一通りの問診を受け、日を改めて発達障害のテストを受けた。ウェスクラー診断、WAIS-Ⅲと呼ばれるものだ。
内容としては「図形の規則性を見出すテスト」や「数字を聞いて短期的に覚えるテスト」、「単語の意味を回答するテスト」などであった。

すべての内容を記憶しているわけではないが、試験の途中に突然「ちょうちょ」を歌いだしたのは覚えている。何で?

テストの結果を受けて、発達障害であるという診断が下りた。
IQは大きく分けて4つに分類されるらしいが、記憶動作に比べて言語理解が30ほど開きがあった。考えたことを言葉に落とし込む能力が(当社比で)足りないということらしい。

納得するしないというか、納得せざるを得なかった。

病院にかかるとき、毎回親が大阪から福岡まで来てくれていた。
いつかの診察の後母親に「そんな体に産んでごめんね」って言われて、僕はどんな顔をしていいかわからなかった。そんなこと言われても仕方ないし、言ってほしくないし、ただただつらいという感情だけが今も残り続けている。

6.四畳半メランコリック

診断が下りたら何かが変わるわけでもなく、ただただやることのない日々は続いていた。

あまりにも暇なので、ずっと何かを考えていた。
幽霊とは何か、を考えてみたり。
死んだら人間はどうなるのか、を考えてみたり。
書ききれないほどたくさん考えたが、すべて答えが一つに定まらないことばかりだった。

答えのない問答に、自分なりの回答を見出していく。
頭の中でパズルのピースがはまるまで、考えて考えて考える。

そんな日々を過ごしているときに、ふと自分のやっていることが「哲学」という行為ではないかと気づいた。さながらアハ体験である。
その瞬間、日常のすべてが哲学に見えた。

世界に意味のないことなんてなくて、ただ考えるか考えないかだけの差しかない。きっと、僕が発達障害を抱えて生まれてきたことにも何か意味がある。そう思えるようになった。

だから僕は『四畳半メランコリック』という曲を書いた。

7.まとめ

おそらくドイツ語を選んでなければ留年はしてなかったような気がする。
であれば今の僕のように「どうでもいいことを考える」=「哲学をする」癖はつかなかったであろう。

そうなれば僕は未だにドラマーの夢を諦めることもできなかっただろうし、作詞を重視した作風にたどり着くこともなかっただろうし、僕のメインの活動である「鳥籠の中で僕たちは、」というユニットは生まれることはなかっただろう。

そんな人生、まっぴらごめんである。
発達障害を抱えた人生、というかすべてにの事柄を等しく考える人生は苦しくなる時もある。でも、僕は人間として生きて人間として死にたい。

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