見出し画像

私は「悩める若者」だったのか? 後編

  前編からの続きです。

 惨敗に終わったその面接があった日以降、以前から続いていた身体・精神面の不調が深刻化していった。全く脈絡がない場面で号泣し始めてしまったり、以前から続いていた吐き気や動悸に加え、耳鳴りなども加わっていった。
 そんな毎日が続き、このままでは普通の生活が送れない、と思った私は心療内科に相談しに行くことに決めた。

 近くにあった心療内科は予約がいっぱいで、診てもらえるのが早くても一ヶ月後のものが殆どだった。そこで、予約が必要なく、かつ即日診てもらうことのできる電車で一時間ほど行った都心にあるクリニックに行ってみることにした。


 そこのクリニックではヒアリング、血液検査、アンケートや心理テストのようなものを行った。ヒアリングは医師と対話をしながら行ったが、この最中にも私は号泣してしまった。先生は優しく、その最中にもいろいろなアドバイスをくれたが、その態度が(当然だけど)すごく小慣れていて、私の人生の中のイレギュラーを対岸から眺められている気分になった。そんな相手に自らの感情を吐露し、嗚咽を漏らしながら号泣する自分がとても惨めに感じてしまい、それ以降、そこに行くことはなくなってしまった。
 そのクリニックでは初診の結果を次回で伝える、という仕組みになっていたため、初診しか行かなかった私に、果たして何か病名が付いていたかどうかは、今となってはわからなくなってしまった。

 しかしその日、帰り際に看護師から「糖質や酒類を控えた食生活を試していただくと、精神状態が改善される場合もありますよ」というアドバイスを受けた。なぜかそのことだけはとても強く印象に残っていた。
 帰宅後の食事から私は言われた通り、糖分を控えた食生活を始めてみた。白米の代わりに玄米を選び、好きだった麺類を一切食べることをやめた。
 それはつまらくて質素な食生活に違いなかったが、また元の食生活に戻すことでこの状態が悪化することの方が怖かった。その恐怖心だけが私の食生活の制限を継続させるに至った。

 そんな生活をひと月続けた結果、私の体重は8キロほど減少した。
 また、細々ではあるものの就職活動を再開し、三月が終わる一週間ほど前に、ある企業から内定をもらうことができた。志望していた業界ではなく、その企業を私に勧めたエージェントも「面接練習だと思って行ってみて」と言っていた。悩んだ結果、私はその企業で働くことを決めた。


 このような状態になる前の私は、三月までに納得できる内定が貰えなかったら、来年も就活を行う、いわゆる「就職浪人」の形をとろう、と考えていた。
 しかし、冷静に考えて、とてもこの状態では就職活動など続けられない、というのが現実だった。1日のうちに集中できる時間が極端に減ってしまっているし、今度は面接中に号泣してしまうかもしれない、という恐れがあった。
 また、私がこのような状態になってしまった理由の一つに「就職できない恐怖」というものがあった。今はこの状況を少しでも改善するため、志望する業界でなくとも、一度そこで働いて、不安要素の一つであるそれを解消するということが最善だと考えたのだ。
 この考えは、今働いている会社に失礼に値するが、その時の私にはこうするしかなかったのだ(このアイディア以外に思いつかなかった)。
 それに、今の仕事にはやりがいを感じているし、個人プレーな業務がほとんどなので、集団行動が苦手な私にとっては快適な環境だと感じている。

 三ヶ月ほどたった現在、食事制限や就活から離れたおかげか、この当時のような精神・身体面での不調はほとんどなくなった。
 ただ一つ、生活の中で今でも変わらないのが、糖分を避けた食生活を現在も続けている、という点だ。理由は当時と変わらず、「普通の食生活に戻して、また元の精神状態に戻るのが怖い」ということからだ(あと、痩せたのがかなり嬉しかったのもあるけど)。
 当時は何度も「鬱」という文字が頭をかすめて、自分もその患者の一人に違いない、と信じて疑わなかった。これ以上の地獄なんてきっと存在しない、とすら思っていた。

 しかし、就職活動というものは人間が一度は悩むように仕組まれているイベントのようなものだし、そこにコロナが加われば、人が落ちていく理由やきっかけは無数に生まれてくる。
 若者の鬱傾向もかなり強くなっているみたいで、私のように病名がついていない場合でも精神面や環境の変化から、今までにないくらいの苦しみを味わっている人が今日もどこかにいる、ということになる。
 若年層で、就活や友人関係、コロナで精神を病んだ人のことを「悩める若者」と呼ぶ記事をはじめとしたメディアを何度か見かけて来た。
 その「悩める若者」における定義(一般的な思春期の悩みを抱える者から鬱病の患者まで)はそれぞれで違うが、今の時代、誰しもがそこに該当するのではないかと思う。または、何かの拍子でそこに取り込まれてしまうようにできているのだ。

 そういった人々にとって、どのような環境が適切なのだろうか、と考えるときがある。
 私が思う一つの正解として、「認めてくれる人の存在」というものがある。
 悩みから精神・身体面での不調が出る人の中には「罪悪感」を感じている人も少なからずいるかと思う。
 みんなが当たり前のようにできていることにつまずき、前に進めないことに対する罪悪感だ。私の場合、それが就職活動であったり、家族間でのコミュニケーションであったりした。それが他の人では、仕事や友人関係になったりする。
 しかし、楽しみや暮らし方の選択肢の幅が広がってきた現在では、そういった日常のアクティビティでの「当たり前にできる」という価値観はほとんどないも同然である。周りが「当たり前にできている」ものはあくまで「当たり前にできているように見える」だけなのであって、それに伴う結果も向き不向きや運の有無があっただけに過ぎない。


 そのような罪悪感を伴う悩みに陥った場合に必要なものの一つが「認めてくれる人の存在」ではないか、と私は考えるのだ。自分のことをよく知っている人や、自分の考えを肯定してくれそうな人に自分の悩みを話してみる。その相手は自分を昔から知っている幼馴染や親友、家族でも良いし、利用者の感じ方にもよるが、カウンセラーや心療内科の先生も一つの選択肢かもしれない。
 そういった人に話し、肯定されることで「これで悩んでもよかったんだ」という気持ちになれる。


 私はカウンセリングを学んだこともないし、どん底の経験をしてそこから自力で這い上がって来たわけでもない。
 それでも私もこの方法を実際にとったことで、少しながら気持ちがすっとしたし、人によっては、悩みを言語化し人に伝えることで、自分の考えをまとめることができ、結果的に自分でも思ってなかったような展望が開けるかもしれない、とも思う。
 そんなことをときどき考えたりしている。


この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,292件

#振り返りnote

84,890件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?