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ボーッとしている時間 #はたらくを自由に

小学生の時、夏休みの宿題に「働く人」を描いてこいというのがあった。他にヒントはない。とっさに思いついたのが、教科書に載っていたミレーの「落穂ひろい」であった。

画用紙と水彩絵具を持って、近くの工事現場に行くと、ちょうど3、4人のおじさんたちが作業をしているところだった。つるはしとシャベルを使って土を掘っている。夏だったので、上半身裸で、下はベルトをしたズボン、頭にハチマキ、首からタオルをぶら下げてといった出で立ちだったと思う。

私が、絵を描いていると、おじさんたちから声をかけられた。

「ぼく、そんなところで何してるんだ。」

「絵を描いてます。」

「俺らのか?」

「夏休みの宿題で『働く人』の絵を描いてます。」

「なんで、俺らが『働く人』なんだ。」

「汗かいて、からだ使って仕事してるからです。」

ざっと、こんな感じだったろうか、やり取りの後、おじさんたちは、私の絵を見に来た。

「これが、おれか。」

「それじゃ、これがおれか。似てるかな。」

ひとしきり、私の絵を評した後、おじさんたちは、続きが描けるようにと、私に立ち位置の確認をしてから作業を再開した。しかし、それもつかの間、すぐに休憩を取り始める。日陰に入り、座り込み、お茶をラッパ飲みすると、おしゃべりしながら、タバコをふかし始めた。私は、絵が一段落したので、お礼を言ってその場を立ち去ることにした。

今、「はたらく」という言葉を聞くと、どうしても、あの時のおじさんのような「働く人」を思い浮かべる。 

ここで、私は、肉体労働は尊いなどと言いたいわけではない。

肉体労働や単純作業をしている間に見つけることができたことを書いてみようと思うのだ。

穴を掘る、道を掃く、コピーををとる、ホッチキス止めする。こういった肉体労働や単純作業をしてる時って、ボーっとすることはないか。はたから見てたら、ただ、ボーっとしてるだけのように見えるから、集中しろと注意されてしまうのだが、思い出してほしいのは、このボーっとしてる時間の頭の使い方だ。

ボーっとしている時間。この時間って、いろんなことを思い起こしたり、自分を見つめ直したり、ありもしないことを空想してみたり、ポコッと面白いことを思いついたり、結構、いろんなことで頭がはたらいてないか。私は、このボーっとしている時間の頭のはたらきこそ、ほんとうの私の姿だと思うのだが、間違ってるのだろうか。

そう思うと、ミレーの落穂ひろいも、私の「働く人」も、働いている姿は描いていても、ボーっとしている人の頭の中にいるその人のほんとうの姿は描けていない。そんな気がするのだが、どうだろう。

仕事をしている時は、自分の全部を使って仕事をしているわけではない。頭の中にいるほんとうの自分は、仕事に使っていない。ボーッとしながら仕事をしている頭の中には、他からは知ることができない自分だけの自由がある。

何のために仕事をしているのかとの問いには、いろんな答えが用意されている。家族のため、お金のため、自分のため、お客様のため、社会のため。全部ホントで、全部ウソなんだろう。でも、この中で、自分のために仕事をしているという答えは、マズローの五段階説と相まって、最もそれらしく見える。

でも、自分のために仕事をすると言ったところで、仕事によって自分を全部作り変えることなんてできないはずだ。ほんとうの自分は、働きながらもボーっとしている時間の頭の中にいるんだから。

別の言い方ができるのかもしれない。

はたらいているのは、自分のほんの一部だけ。ほんとの自分は、頭の中で別のことを考えている自分だ。

そうだとしたら、会社に合わないとわかったら、とっとと辞めて転職すればいい。変わるのは、あなたのほんの一部だけなのだから。

もし、逆に、辞めろと言われても、悲観することはない。あなたのごく一部が否定されただけで、ほんとうのあなたは否定されたわけではないのだから。

こんなこと考えることができるのも、ボーっとしている時間があるからなんだと思う。

しかし、最近は、ロボットやAIなどの登場によって、いろんな作業が自動化されて、肉体労働や単純作業が減ってきている。ロボットやAIによる業務効率化により、節減できた人員をより創造的な分野に回して企業の業績向上につなげようという方針によるのだろうが、困ったことに、肉体労働や単純作業が減った分、ボーっとしている時間も減ってしまうのだ。

創造的な分野に人員を割り振っても、創造的になるわけではない。創造的になるためには、内省したり、自分を俯瞰してみたり、空想してみたりと、頭の中のほんとうの自分がはたらく時間が必要なのだと思う。

創造的になるためには、ボーっとしている時間が必要なのだ。

そこで、ひとつの提案だが、ロボットやAIによる業務効率化により、肉体労働や単純作業が減った分、むやみに他の分野に人員を割り振るのではなく、ひとりあたりのボーっとしている時間を増やしてみてはどうか。

なぜ、そんなことが言えるかって、私がnote の記事を思いつくのは、いつも、このボーっとしている時間だからだ。

ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる道路掃除のベッポほどの哲学者はいないと私は思うのだが、みなさんは、どうお考えだろうか。

(おわり)

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