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青くて四角いくすり①

  青くて四角いくすりを買った。誰にも、見られてはいけない、知られてはいけない。
   8階建ての雑居ビルに入るクリニックから小さな紙袋を受け取ると、すかさずスーツの左ポケットに差し込んで、エレベーターに飛び乗った。ポケットの上から左手でそっと触れてみる。紙袋のゴワゴワした感触の中に、ごつっとした出っ張りを感じた。中指でぐっと押すと、返事をするかのように、ポンと弾き返された。
 地上に着き扉が開く。乗り込もうとする若い女性と一瞬目が合うが、そのことを打ち消すかのように互いに目をそらした。暗い通路を抜けて外に出ると、手をかざしたくなるほどの晴れ、大通りには車が行き交う。平日だからであろう、商用車がやたらと目についた。通りの向こうには、今出てきたのと同じような雑居ビルが建ち並ぶ。日光の跳ね返りだけが見える窓、蛍光灯が透けて見える窓、一面をシールで覆った窓、所々に、リフレ、喫茶、金融といった看板が見える。同じビルで、働いているやつもいれば、休んでいるやつ、苦しんでいるやつがいる。そんなビルの向こうには、最近建ったばかりの高層マンションが日差しを反射させながら、こちらを見下ろしていた。
 「この薬、どこで飲もうか。」
悩みながら、通りに沿って歩いていくと、高速の高架下にたどり着いた。赤信号が見えたので、横断歩道を渡らずに右に折れて進むと、ビルの建設現場が右手に現れる。白い壁で囲まれたその片隅には、文字で埋め尽くされた小さな白い看板が、国のお墨付きだから文句ないだろうと言わんばかりに、こちらに向けて貼り付けてあった。建築計画、(仮称)〇〇マンション、仮称がわざとらしい。
  建設現場と隣のビルとの境目に、よく見る自販機を発見した。
「ちょうどいい」
  たいていの自販機は、ペットボトル飲料を、500mlに揃えてあることが多いが、この機種は、285mlのミネラルウォーターが置いてある。500mlを一気に飲むのは難しいが、285mlなら、なんとかなるだろう。
 「はい、110円」
   転がり落ちたペットボトルをしゃがんで取り出すと、ペットボトルの表面が少し汗ばんでるのに気づいた。左手に持ち変えてキャップを開けた。困った、キャップの行き場がない。仕方がないので、スーツの右ポケットに押し込んだ。薬を探すため、再びペットボトルを右手に持ち変えて、左の手で、ポケットをまさぐる。ペットボトルの水滴が付いたままなので少し気持ちが悪い。紙袋の口を探し当て、親指と人差し指を突っ込むと、薬が入ったフィルムに触れた。右手はペットボトルを持っているから左手だけでがんばらなくてはいけない。左の人差し指を支えにして親指でフィルムの出っ張りを強く押す。膜が破れて、薬が紙袋に飛び出した。親指と人差し指でつまんでみると辺が二つ、角度を変えてつまんでみても、辺が二つ。ひし形をした薬だ。誰にも見られないように辺りを見まわしてから、二つの指で口に運ぶ。右手には、ペットボトルがスタンバイ。口を少し開けて、薬を舌の上に置くと、すかさずペットボトルの水で流し込む。四角い角が喉を通っていくのがわかる。薬の後を追いかけて、何杯も何杯も水を注ぎ込んだ。
 クリニックでもらったのは、青くて四角いくすり、バイアグラだ。ご存知、EDの治療薬。治療薬には他に、シアリス、レビトラなどがあるが、もっともオーソドックスで安価なバイアグラを初診の私に処方してくれたのだろう。クリニックの診察では、既往症や現在服用している薬の確認に終始して、薬が必要な理由は聞かれなかった。どう答えようかと緊張していたのとは裏腹に、誰かに理由を聞いて欲しかったので、肩透かしにあったような感じだ。
 だから、事を起こす前に、この薬が必要になった理由を、誰かに聞いておいてほしいのだ。もちろん、秘密のままに。
 それから大事なことだが、この薬は空腹でないと効かないし、効き始めるには一時間かかるそうだ。必要な時間から逆算して今、薬を飲んだから、実行に移すまでの間に話せるだけは話しておこうと思う。
 私は、吉田 崇、54歳。5歳年下の妻と、今年、大学生になった娘がいる。
   大学卒業後、すぐに地元の中堅商社に就職し、ずっと経理畑を歩んできた。他人より少しゆっくり目ではあったが、数年前には、経理課長という管理職に就き、それなりに満足していた。住まいも、都市近郊に、それなりの大きさの一軒家を建てることができ、娘も、国立ではないが、私立のわりと名の通った大学に進学することができた。しかし、55
歳になろうとする矢先に、実力主義、若手登用を名目に、突然、課長職を剥がされて、参与という、わけの分からない役職を付けられて、窓際に放り出されたのだ。こうなると面白くない。いてもいなくても分からない仕事であることを奇貨として、朝のミーティングが終わると、打ち合わせや外回りと称し、さっさと、外に出歩くようになった。
   そして、今日、一時間後に、女子大生の夏菜子と待ち合わせている。
(つづく)



   

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