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青くて四角いくすり(全)

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  青くて四角いくすりを買った。誰にも、見られてはいけない、知られてはいけない。
 8階建ての雑居ビルに入るクリニックで、小さな紙袋を受け取ると、すかさずスーツのポケットにしまい込み、エレベーターに飛び乗った。
 ポケットの上からそっと触れると、紙袋のゴワゴワした感触の中に、ごつっとした塊を感じる。中指でぐっと押すと、返事をするかのように、ポンと押し返された。
 地上に着き、扉が開く。
 乗り込もうとする若い女性と一瞬目が合うが、そのことを打ち消すかのように互いに目をそらした。
 暗い通路を抜けて外に出ると、手をかざしたくなるほどの晴れ。大通りには車が行き交っている。平日だからであろう、商用車がやたらと目についた。
 通りの向こうには、今出てきたのと同じような雑居ビルが建ち並んでいる。日光の跳ね返りだけが見える窓、蛍光灯が透けて見える窓、一面をシールで覆った窓、所々に、リフレ、喫茶、金融といった看板が見える。同じビルの中で、働いている者もいれば、休んでいる者もいる。
 そんなビルの向こうには、最近建ったばかりの高層マンションが日差しを反射させながら、こちらを見下ろしていた。

「この薬、どこで飲もう」
 通りに沿って歩いていくと、高速の高架下にたどり着いた。
 赤信号を目にすると、横断歩道を渡らずに右に折れて進む。
 しばらくすると、ビルの建設現場が見えてきて、白い塀の隅っこに、ときどき目にする自販機を発見した。
「ちょうどいい」
 たいていの自販機は、ボトル飲料を、500mlに揃えてあることが多いが、この機種は、285mlのミネラルウォーターが置いてある。
 500mlを一気に飲むのは難しいが、285mlなら、なんとかなる。
「はい、110円」
 転がり落ちたペットボトルをしゃがんで取り出すと、表面が少し汗ばんでいた。
 ポケットに手を突っ込んで、さっきしまった紙袋の中を探ると、薬が入ったフィルムに指先が触れた。
 そのまま、フィルムの突起を押すと、膜が破れて、薬が飛び出してきた。
 つまんでみると、辺が二つ、角度を変えてつまんでみても、辺が二つ。ひし形をした薬だ。 誰にも見られてないことを確認してから、薬を取り取り出すと、大急いで口に入れた。
 すかさずペットボトルの水で流し込むと、四角い角が喉を通っていくのがわかった。薬の後を追いかけるように、何杯も、何杯も水を飲む。何杯水を飲んでも、薬がまだ喉の奥に引っかかってるようで、いやな感じだ。

 クリニックでもらった薬は、青くて四角いくすり、バイアグラだ。
 ご存知、EDの治療薬。
 治療薬には他に、シアリス、レビトラなどがあるが、もっともオーソドックスで安価なバイアグラを初診の私に処方してくれたのだろう。
 クリニックの診察では、既往症や現在服用している薬の確認に終始して、薬が必要な理由は聞かれなかった。
 どう答えようかと緊張していたのとは裏腹に、理由によって、薬が必要かどうか診断されると思っていたので、肩透かしにあったような気分だ。
 だから、この薬が必要になった理由を、誰かに聞いておいてほしいのだ。
 もちろん、秘密のままに。
 それから大事なことだが、この薬は空腹でないと効かないし、効き始めるには一時間かかるそうだ。
 必要な時間から逆算して今、薬を飲んだから、その間に話せるだけは話しておこうと思う。
 私は、吉田 崇、54歳。5歳年下の妻と、今年、大学生になった娘がいる。
 大学卒業後、すぐに地元の繊維問屋に就職し、ずっと経理畑を歩んできた。
 他人より少しゆっくり目ではあったが、数年前には、経理課長という管理職に就き、それなりに満足していた。
 住まいも、近郊に、それなりの大きさの一軒家を建てることができ、娘も、国立ではないが、私立のわりと名の通った大学に進学することができた。
 しかし、55歳になろうとする矢先に、実力主義、若手登用を名目に、突然、課長職を剥がされて、参与という、わけの分からない役職を付けられ、窓際に放り出されたのだ。
 こうなると面白くない。いてもいなくても分からないような役職であることをいいことに、朝のミーティングが終わると、打ち合わせや外回りと称して、さっさと、外に出歩くようになった。
 そして、今日、一時間後に、女子大生の夏菜子と待ち合わせている。

   ★

 夏菜子と初めて出会ったのは、今日みたいなカッと晴れた日だった。今からまだ、2ヵ月くらいしか経ってない。
 その日、夏菜子は、リクスー姿(リクルート・スーツ)で私の前に現れた。
「なに? その格好は」
 あまりの不自然さに度肝を抜かれた私は、初対面の彼女に横柄な口をきいてしまった。
 だって、そうなのだ。彼女は、オナクラ嬢(いわゆる風俗店)、客に指名されて、待ち合わせたホテルの前にやってきたのだ。
「ごめんなさい、理由は後で説明します。でも、私、正真正銘の女子大生なんです」
 彼女は、女子大生のところをやけに強調して言った。
 それもそのはず、彼女の勤めるお店は、女子大生をウリにしているのだ。
 女子大生といえば、パパ活を思い浮かべるだろうが、パパ活アプリは身バレ(身元が発覚すること)する可能性がゼロとはいえないし、それほど深い関係を求めなければ、オナクラで十分ということで、この手のお店の需要は少なからずある。
 もっというと、ハードなことを要求されない分、こういうお店の方が、女の子の質が高いのだ。
 なのに、目の前の夏菜子は、たぬきみたいな顔をしていた。
 うりざね型ではなく、頬の肉付きが僅かによいといった程度である。目は、もともと一重であったものを、アイプチで二重にしているように見えた。目尻の方が少し垂れているので、余計にたぬきに見えるのかもしれない。
 私を見るなり、遠い昔の知人に会ったような不思議な顔をしていたのが印象に残っている。
 背が低いので、私を仰ぎみるようにして話しかけてくれるのだが、私は、彼女の前髪が気になって仕方がない。
 走ってきた汗のせいで、前髪が額に張り付いて、たぬきというより、ロバの前髪のように見える。濡れた前髪をかき分けて、額をハンカチでポンポンと拭いてやりたい。
 そんな衝動にかられていると、
「中に入りましょう」
 彼女の、冷たいがふっくらとした手が、私の手を取った。

 夏菜子というのは、もちろん源氏名である。悔しいが、最後まで本当の名前を知ることはできなかった。この店にだけ現れ、いつかは消えてしまう。それが、女子大生 夏菜子という存在だ。

 最近のラブホテルは、ビジネスホテルと区別がつかないものがある。実際、ビジネスと兼用している所もあって、スーツケースを携えて入ってくる客もいるのだ。私たちは、いったい、どう見えるんだろう。就活生とリクルーター? いや、まさか。それにしても余りに目立ち過ぎている。
「6階ですって」
 フロントで鍵を受け取った夏菜子が、先にエレベーターに乗り込んだ。シャツの第一ボタンが外されてるので、どうしても胸元に目がいく。
「汗かいちゃった」
 私を見つめる夏菜子。エレベーターの扉が開く。
「怖くないですか」
「えっ」
「知らない人と、こんなところに来て怖くないですか」
 廊下を歩きながら振り向きざまに問いかける夏菜子に、恐る恐る聞き返した。
「ぼったくりじゃないよね。それとも、美人局」
「違いますよ」

 夏菜子が慣れた手つきで鍵を開けると、狭い廊下の奥に丁寧にメイキングされたベッドが見えた。
 革靴の踵をつかんで脱ぎ捨てると、スリッパを履くのも惜しんで、一直線にベッドへ向かう。腰掛けると、ぐんとお尻が沈みこんだ。スプリングの具合いを確かめるように、両手をついて2、3回跳ねてから、背伸びをしたまま、ぐっと後ろに倒れ込むと、何の変哲もない天井と照明が見えた。布団のレースが耳に触れて、がさついた音が聞こえる。
 私は、この瞬間が好きだ。外の世界から逃れられた気がする。窓のない閉ざされた部屋で、こうして背伸びをしていると、このまま時間が止まってくれないかとさえ思う。帰りたくない、このままここに居させてほしい。
 私の脱ぎ捨てた靴を整えると、夏菜子も遅れてベッドにやってきた。横に腰掛けた夏菜子は、私の仕草をまねて、大きく背伸びをすると、私の横に並んで寝転んだ。
「スーツにシワが付いちゃうよ」
「構わないわ、帰ってアイロンかけるから。いつもそうしてるの。それより、こうして背伸びしてると、とても、気持ちいい」
 夏菜子は、ベッドの端に手が届くほど背を伸ばした。白いシャツに包まれた胸が、黒いスーツのボタンを弾き飛ばさんばかりに迫り上がる。さっきは、幼顔に隠れて気づかなかったが、夏菜子の身体は、確かに大人である。
 私と目が合うと、夏菜子は起き上がり、事務的な口調で、
「先にシャワーを浴びてきてください。その間に準備しときますから」
 といって、服を脱ぎ始めた。

 オナクラは、いわゆる本番行為がない風俗店である。オナクラの中でも、キスやオーラルなどの粘膜接触がある比較的ヘルスに近いお店と、そういった行為のないソフトなお店があるが、このお店は、ソフトな部類に属している。青くて四角いくすりが必要な私には、ちょうどいい感じた。

 一通りのサービスを終えると、夏菜子が、
「ここまでが、このお店の普通のサービスなんですよ」
 と、確かめるように、私の顔をのぞき込んだ。
「満足していただけましたか?」
「ああ」
 と、ベッドで横になったまま、うなずいてみたものの、夏菜子が「普通」に力を入れて話したのが、妙に気になった。
「今日は、お休みなんですか?」
「ううん、ちがうよ」
「じゃあ、どうして?」
「出張で近くまで来たんだ」
「どうりで、ネクタイ姿だったから、不思議に思ってたんです」
 言われてみれば、ネクタイ姿でオナクラに来る客もめずらしいのだろう。
 でも、仕事を抜け出して来たなんて口が裂けても言えない。一応は、課長を勤めた身なので、そんな、だらしない男だとは思われたくはないのだ。どうせ、もう会うことはないのだから、これくらいの嘘は構わないだろう。
 一応、夏菜子にも、ラブホには場違いな服装で来た理由を聞いてみることにした。
「君はどうして?」
 でも、リクスー姿の理由なんて聞かずと知れている。
 それより、夏菜子の前髪が気になって仕方がない。額に垂れた前髪が目にかかりそうになっている。夏菜子がそうするより先に、そっと指先でかき分けてやると、ぽつぽつとした出来物が見えてきた。彼女は、どうしようもなく若いのだ。
 髪をもてあそんでいた私の手を、夏菜子は、大事そうに両手で包んで布団の中にしまい込むと、
「面接だったんですよ、就職面接。でも、ダメかな、いい反応なかったし」
 と、仰向けなりながら、吐き出すように答えた。
 今頃になって、夏菜子が布団からはみ出していることに気づいた私は、横で丸まっている布団を伸ばして、彼女の腰に掛けた。

 すると、夏菜子が問いかけてきた。
「どんなお仕事というか、業界なんですか?」
 業界という言葉にリアルな就活生を感じたので、私は、とりあえず答えることにした。
「商社だけど」

 一昔前の商社は、飛ぶ鳥を落とす勢いがあったが、現在のIT業界の興隆と比べると、凋落の感を否めない。それでも、学生にとっては、憧れの的であることに変わりない。就活生の夏菜子が、どんな反応を示すか楽しみだ。
 とはいっても、私の勤めているのは、商社といえど専門商社。しかも、かつては中堅といわれていたものの、現在は、新興に追い抜かれ細々と生き延びているような、平たくいえば、地場の繊維問屋なのである。

「商社か、世界を股にかけてるんですね。ところで、吉田さん。あー、吉田さんって呼び方でいいですよね。世界って、例えば、どんな国に行かれたんですか?」
 無邪気にきいてくる夏菜子に、本心しまったと思った。地場の繊維問屋勤めで、海外なんて行けるはずもない。また、嘘をつかなくてはならない。
 それはいいとして、外国語がからきしダメな私が、どこの国と答えようと、その国の言葉なんて話せない。まあいい、適当に答えておくことにした。
「世界中を駆け回ってるんだ。どこの国と言われてもなあ、先週は、イタリアに行ってきたよ」
「イタリアですか、ピサの斜塔しかわかんないな。そういえば、私のお客さんで、もう一人、吉田さんって人がいるんですけど、この前、イタリアのお土産だと言って、『バッチ』とかいうチョコくれたんですよ。イタリアでは人気だって」
「あー、『バッチ』のチョコなあ、あの丸いやつ。甘いもの好きじゃないから食べたことないけど、美味しいんだってね」
 適当に誤魔化して、話題を変えることにした。

「何学部?」
「何学部に見えますか?」
「文学部?」
「違います。最近は、女の子もいろんな学部に行くんですよ。私は、文系なんですけど、理系みたいに情報が学べる学部に行ってるんです」
「そうか、文系で理系、よく分からないけど、情報でやりたいことがあるんだね。将来何になりたいの?」
「実をいえば、やりたいことがあるとかじゃなくて、高卒じゃどうしても嫌で、大学に行きたかったんです。行けそうな大学があって、そこで入れそうだったのが、今の学部なんですよ」

 こういう会話を寝物語というそうだ。ベッドの上で、男女が余韻に浸りながら、たわいのない会話を交わす。
 昔のテレビドラマなんかで、腕枕された女が、男の語る寝物語にうっとりと聞き入るシーンがあった。不思議と、男も女も、寝物語で語られる話が真実だと信じてしまうようだ。
 なのに突然、男が別の女のことを思い出し、身づくろいを始める。「もう、帰ってしまうのね」と女が嘆いて終わるというものだ。
 しかし、夏菜子は違っていた。
「お時間です」
 私は、あっという間に現実に引き戻された。
 夏菜子と初めて出会った日は、こんな風だった。

   ★

 さっき、くすりを飲んでからこのかたずっと、私は一人、とある地下街をさまよっている。この地下街はアリの巣のようになっていて、一度入ると東西南北がつかみづらい。
 JRや私鉄、地下鉄の駅を結ぶ巨大迷路のようだ。いつもは面倒な地下街だが、こういう時には都合がいい。JRから私鉄の駅へ、私鉄の駅から地下鉄へと人の流れに沿って歩いていると、誰にも怪しまれなくて済むからだ。
 だいたい半時間くらい経っただろうか。まだ、薬が喉に引っかかっている感じがする。
頬が少しほてり始めてきたようだ。左頬に触れてみると、いつもより温かい。気を紛らわすために、何か考え事をすることにした。

 そういえば、古典に出てくる遊女との恋物語は、不思議で仕方ない。はたして、金で買った、買われたという関係で、ほんとうに恋に落ちることができるのか。
 近松門左衛門の『心中天の網島』なんて、妻子ある紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が恋に落ち、タイトルどおり心中までしてしまうのだ。
 治兵衛が小春に恋してしまうのは、よくわかる。初対面の夏菜子に対して、そんな感情を抱きかけているからだ。
 だが、どうして、小春が治兵衛のようなダメ男に惚れてしまい心中までしたのか、私にはとうてい理解できない。
 実際は、治兵衛の引き起こした無理心中に小春が巻き込まれてしまったか。それとも、小春が、自ら迎える結末に薄々気付いていながら、死ぬまで恋する女を演じ続けたか。
 いずれにしても、小春の治兵衛への思いは、本物ではなかったような気がする。
 でも、ほんとうの恋と見紛うほど小春が「したたか」だったからこそ、後世に残る物語になったのではないか。
 もしかすると、二人とも恋なんかしてなくて、ただ、世知辛いこの世から逃れたかっただけなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、地下街をあてどなく歩き続けていたが、ついに考えることがなくなってしまった。仕方がないので、また、夏菜子とのことを思い出すことにした。

   ★

 風俗業界には、後朝の文に似た日記の風習がある。
 後朝の文は、男女が一夜を共にした後、翌朝に、男から女に贈る手紙のことであるが、風俗では、接客した翌日に、女の子が客に向けて書き込むネット日記がある。「写メ日記」とか「お礼日記」とかいわれるものだ。
 女の子の顔や客の名前は伏せてあるが、誰に宛てたものか、すぐにわかるように上手く書いてある。例えば、60分のYさんとか、2時からのお兄さんとか言った具合だ。

 さっそく次の日、夏菜子のページを開いてみた。

「Yさん、びっくりされたでしょう、変な格好で。でも、夏菜子のあんな姿見られるの、とてもレアなんですよ・・・・・・。海外出張の話、楽しかったです。また、聞かせてくださいね。全力でお待ちしています」

 リクスー姿だったことを隠しておいて、これじゃどんな格好だったかわからない。変態なコスプレを楽しんだみたいだ。釣りのネタにされてしまったようだが、なんだか憎めない。全力で待っていてくれるのなら、また、行かなくてはならぬ。
 それにしても、他の客にはどんなことを書いているのだろう。気になったので、ずんずん日記をめくってみると、

「Yさん、また来てくれてありがとう。6回目かな。海外出張の帰りに寄ってくれて、いっぱいお土産ありがとう。旅先でも夏菜子のこと、ずっと思ってくれてたって、うれしい・・・・・・」

 この客が、夏菜子が言ってたもう一人の吉田さんなのだろう。
 日記には、写真が添えられていて、小さなチョコの袋とともに、箱から取り出されたリップが、先を少し出した状態で写されていた。私が見たところ、夏菜子には少し派手そうに思える。

 それから幾日か経ったある日、また仕事が嫌でたまらなくなった日に、ふと夏菜子のことを思い出した。
 そうだ、もう一人の吉田さんみたいに何かプレゼントを買って行こう。
 百貨店の化粧品売り場なんて、スーツ姿のおじさんが、平日の日中にうろつくような場所ではない。
 周りの視線を気にしながら、夏菜子に似合いそうな品物を探すのだが、何がいいのかさっぱり分からない。おじさんなんて、そんなものなんだろう。見るもの見るもの目新しく、輝いて見える。。
 とある売り場のショーケースに、小さな白いたまご型のケースを発見した。ハンドクリームらしい。
 「これにしよう」と、店員さんにプレゼント包装をお願いしたら、お店の白い袋の上に、百貨店の紙袋を重ねて持ち運ぶ羽目になった。
 外は雨。
 濡れないように、紙袋を傘の真ん中に寄せて持っていると、両手の自由が効かないのが、なんとも煩わしい。
 待ち合わせのホテルに五分前に着いた。
 ラブホの前に、スーツ姿で突っ立ているおじさんほど、様にならないものはない。今日が、雨でよかった。傘の陰に、隠れることができる。
 滴り落ちる雨粒のすき間から、前の通りを眺めていると、傘を差した人達が、足速に通り過ぎていく。
 行き交う傘の間を、ひときわ大きな赤い傘が横断歩道を渡って、こちらに近づいて来る。
 黒のブラウスにチェックのスカート、長い裾が小刻みに揺れている。
 目の前で、傘が後ろに傾くと、中から見覚えのある顔が現れた。
「お待たせしました」
 夏菜子だった。

 部屋に入ると、二人は、片隅の小さなテーブルを挟んで腰掛けた。
 私は、さっそく夏菜子に紙袋を手渡した。
「プレゼント?」
「そうだよ」
 夏菜子は、紙袋の中から白い小箱を取り出して、
「開けていいですか」
 と、上目遣いに私を見つめた。
 すかさず「もちろん」と答えると、夏菜子は、うれしそうに小箱を開けて、中のプレゼントを取り出すと、
「ありがとうございます。ハンドクリームね。うれしいわ、大切に使わせていただきます」
 と言いながら、手の甲にクリームを乗せて少し延ばしてみせた。

 夏菜子のサービスが終わった。
 二人は、また、飾り気のない天井を見つめながら、たわいのない会話を始めた。
 夏菜子が、
「どうして、プレゼントくれたの?」
 と、少し詰め寄るように問いかけてきたので、私は、気を悪くされる覚えはないと思いながら、
「プレゼント、気に入らなかった? 実はね、この前、Yさん、もう一人の吉田さん? の日記を見たんだよ。そしたら、夏菜子にプレゼント贈ってて、夏菜子、『うれしい』って書いてたから」
 と答えると、夏菜子は、
「吉田さんは、そんなことしなくていいよ。吉田さん。えーと、もう一人の吉田さんはね、風俗に慣れてるの。風俗ではね、女の子に優しくしてもらったり、ちょっぴりいいサービスをしてもらいたくって、プレゼントを持ってくる人がいるのよ。でもね、吉田さん、あー、こっちの吉田さん。私、普通の女の子なの。そんなことされたって、ちっともうれしくないし、いいサービスなんてしないわ。だから、吉田さんは、そんなこと、気にしなくていいよ。それより、こうして手を繋いでてほしいの」
 と言いながら、布団の中から私の手を探し出すと、強く握りしめてきた。
 そのまま、しばらく二人で天井を見つめていると、夏菜子が、
「それから、他のお客さんの日記は、見ちゃダメなんだよ、わかった」
 と、生徒を諭すように言ったので、
「ああ、わかったよ」
 と、照れくさそうな顔をして、わかったフリをした。
 私が了解したことに得心すると、夏菜子は、
「吉田さんは、何が好き? どんな料理が好き?」
 と、笑顔で聞いてきた。
「コロッケ」
 と、答えると、
「それは、無理」
 仕方がないので、
「じゃあ、ハンバーグ」
 と、答えると、
「うん、ハンバーグにしよう。次、予約してくれたら持ってくるからね」
 と、次が当然あるように、夏菜子は勝手に約束してくれた。

 ほんとうにハンバーグを作ってくるか試してみよう。
 そんな気分にさせられて、また、夏菜子に会いに行った。
 夏菜子は開口一番、
「ごめん、ハンバーグ無理だった。これで許して」
 と、小さな花柄の紙袋を、私の目の前に差し出した。
 中を覗いてみると、小さなカップケーキが5つ、アルミ箔に包まれて、こちらに顔を向けている。
「食べてみて」
 夏菜子は、私がどんな反応をするか興味深げに見つめている。
 アルミ箔を少しめくって、一口かじってみると、ほのかにミルクの風味を感じたが、少しパサついているのが気になった。
「おいしい?」
 夏菜子は、無理にでも、おいしいと言わせたいらしい。
「おいしいよ。さすが、夏菜ちゃん。お菓子が作り上手だね」
 と、笑顔で答えると、アルミ箔を全開にして、おむすびをかじるように、がぶり、がぶりと平らげてみせた。

 また、いつもと同じことを済ませた。
 二人で天井を眺めていると、夏菜子から話しかけてきた。
「私ね、奨学金もらって、大学に行ってるの。親は二人とも高卒なんだけど、どうしても大学に行ってみたかったんだ。こう見えても、高校の成績はよかったんだよ。大学に行って、下宿もしてみたかった。でもね、奨学金もらっただけじゃ、お金足りないの。親に下宿代を少しは負担してもらってるんだけれど、食費や服にもお金がいるし、親にこれ以上迷惑かけられないから、たくさんバイトしてきたんだ。でも、もう疲れちゃった」
 夏菜子はすべてを言い終えると、小さくため息をついた。
「そうなんだ」
 私は、ぽつりと呟くと、自分の学生時代のことを思い出していた。
 家に金がなく、奨学金をもらって大学に行ったものの、周りの学生が遊び呆けているのを横目に、バイトばかりで明け暮れた学生時代。
 夏菜子も昔の私と同じ境遇にいて、つらい目にあってるのだと思うと、急に抱きしめてやりたくなった。
 すると、それより早く、夏菜子が私の手を握りしめてきた。私は、応えるようにさらに強く夏菜子の手を握りかえした。
 夏菜子は、振り切ったような明るい声で、
「私、居酒屋でバイトしてるんだ。このバイトはね、ずっと続けているの。こういうお仕事してるけど、普通にバイトしてるんだよ。夏菜子の居酒屋さん姿、見てみたいでしょう。今度、お客さんで来てみてよ」
 と、彼女が勤める駅前の居酒屋に誘ってくれた。

 鉄道が複雑に交錯するこのターミナル駅の周りには、ホテルや百貨店、オフィスビルなどの高層建築が建ち並ぶ。
 付近には、高級クラブや料亭が林立する歓楽街があるのだが、夏菜子が働く居酒屋は、そこから程遠い私鉄の高架下を利用した飲み屋街の一角にある。
 こんな居酒屋に一人で来るのは何年ぶりだろう。同僚や部下と、たまに居酒屋でひと息つくことはあったが、一人で飲みに出るとなると、何だか落ちぶれた感じがして嫌だった。
 でも、課長職を解かれた今となっては、お似合いかもしれないなと思いながら、お店の古びた暖簾をめくると、店の内は白熱球に照らされて、温かみを帯びた光に包まれていた。
 手前に3席、奥に7席のカウンターと、通路を挟んで反対側には、6卓のテーブル席がある。
 場所柄か、サラリーマン風の客が多いようだ。スーツを脱ぎ、ネクタイを弛めて、枝豆をつまんだり、焼き鳥にかじりついたりしながら、ジョッキを傾け、二人、三人で何かしら熱心に語り合っている。
 私にも、こんな時代があったなと感慨に浸っていると、私を見つけた夏菜子が、客の合間をすり抜けて、私の前にやって来た。髪を後ろで束ねて、黒のTシャツとジーンズの上に、お店のハッピを羽織っている。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか、こちらへどうぞ」
 夏菜子は、マニュアルどおりの台詞を、元気いっぱい私に掛けると、無邪気に笑って見せた。
 私は、夏菜子に、家の玄関で「お帰りなさい」と迎えられたように思った。なんと言っても、いま目の前にいる夏菜子が一番気に入った。この姿は一生脳裏に焼き付いて離れないと思う。
 夏菜子は、カウンターの奥から2番目の席に私を案内すると、店の奥に入り、おしぼりとつきだしを持ってきた。
「何になさいますか」
 居酒屋姿がすっかり板についた感じの夏菜子に見惚れていると、
「ここは、つくねが美味しいんだよ」
 と、小声で教えてくれたので、
「とりあえず、生中とつくね、それにカンパチをお願い」
 と注文した後、夏菜子にそっと「ありがとう」と目配せをした。
 カウンターの奥では、ハッピにはちまき姿の大将が忙しそうに立ち回っている。
 しばらくすると、夏菜子が料理を運んできた。
「ゆっくりしていってね」
 という言葉を残して、夏菜子が立ち去ると、私は一人きりになってしまった。
 仕方なく、まずは、ジョッキに口を付けた。

 店の騒がしさの中で、一人、酒を飲んでいると、いろんな思いが頭をよぎる。
「学生時代に、夏菜子と出会ってたら。きっと、彼女に惚れ込んで、猛烈にアタックしただろう。」
 まあ、結果は見えてる。でも、そんな恋に落ちることさえなかった寂しい学生時代だった。恋といえる恋をした覚えはない。
 結婚は、会社に入ってだいぶ経ってから、叔父が薦めた見合い相手と、相性というよりも、双方待ったなしということで決まったものだった。だから、熱烈な恋というものをまったく知らないのだ。
 そんな妻とも、今まで何とかやってきたのだが、愛情というものは、わからないままでいる。
 そういえば、夏菜子が何気なく、
「奥さんと、一緒に寝てるの?」
 と、聞いたことがある。
「昔は、娘を真ん中に寝かせて川の字になって寝てたけど、今は、妻がくまのぬいぐるみを抱っこして寝ているよ」
 と、答えたら、
「くまちゃんに代わってもらって、奥さんを抱っこしなくちゃ」
 と、笑ってたのを思い出した。

 そんなことを思い出しながら、酒を進めていると、不意に、夏菜子がやってきて、
「ほい、何考えてたの。お酒まだ進んでないよ」
 と、テンポよく話しかけてきた。
「あんまり強い方じゃないんだ」
 と、ジョッキを回しながら答えると、
「そう、ほどほどにね。これ、私からのサービス、熱々だから気を付けてね」
 といって、鉄皿に乗った豆腐ハンバーグを置いていった。

   ★

 とてもいい夜だった。夏菜子にも会えたし、久しぶりの居酒屋だった。
 ほろ酔い気分で店を出て、JRの駅に着いた。ホームで電車を待ってるが、なかなか来ないので、手持ち無沙汰で仕方がない。
 夏菜子は他のお客さんの日記は読むなと言ってたけれど、少しくらいは構わないだろう。
 夏菜子の日記を開けてみた。

「Tさん、今日は、ありがとう。いっぱいのプレゼントに、いっしょに飲もうとしてくれてたのかな、高級なワインまで用意してくれて。でも、何回リピ(リピート、繰り返し客になること)してもらっても、長く延長してもらっても、たくさんプレゼントもらっても、できないことは、できないんです。お店のルールを守ってほしかったです。店長にも注意されました。私にも悪いところがあったと思うから、ほんとうに、ごめんなさい。これまで、いろいろありがとうございました」

「えっ、何だこれ。夏菜子、いったい何されたんだ。それに、『私にも悪いところ』って何のこと?」
 いわゆる出禁というやつだろう。Tは、店への出入りを禁止されたようだ。
 それにしても、Tはいったい何をやらかして、夏菜子は何が悪くて、店長に怒られたのだろう。気になって仕方がない。

 風俗には、女の子が書く日記の他に、客や関係者が書き込む「闇」の掲示板があると聞いたことがある。
 さっそく、お店の名前を入れて検索してみると、やはり掲示板は存在していた。

「夏菜子が、かわいそう」
「Tにマジ惚れされたのか」
「夏菜子は色恋営業(疑似恋愛の接客業)だからな」
「夏菜子は昔、おじさんキラーのキャバ嬢だったらしいぜ」
「夏菜子は何されたんだ?」
「無理やり押し倒された?」
「客に連絡先教えたら、付きまとわれて怖くなった」
「夏菜子は色恋だからな、勘違いするやつ多いんだろう。おれには、何でもさせてくれたぜ」
「おれは、何もなかった」
「お前、キモイからな」
「夏菜子は何でもありだろう」
「夏菜子は、そんな子じゃないよ」
「人によるんだよ。お前、かわいそうだな」

 まさか夏菜子が・・・・・・。

 他の日記も確かめてみようと、日記をめくっていくと、Yさん、もう一人の吉田さんにあてた日記を見つけた。

「Yさんへ、今日もありがとう。13回目かな。大人のおもちゃ、初めて見たよ。あんな形してるんですね。さわってみて、ドキドキ。楽しかったです。また、・・・・・・」

 真相を直接聞きたくて、また、夏菜子に会いにいった。
 いつもどおり、天井を見つめながら、とりあえず、とりとめのない会話から始めることにした。
「この前は、ありがとう。居酒屋さん、楽しかったよ。それから、豆腐ハンバーグ、ご馳走さま。夏菜ちゃん、居酒屋さんで、テキパキ働いてて、カッコよかったよ。」
「夏菜子カッコよかった。テキパキ、そっか。最近、お店に入ってなかったから、しっかり動けてたかなと思ってたんだけど、テキパキ見えてたならよかった。ほんとはね、裏で、ドジばかりしてたんだよ。吉田さん、来てくれてうれしかった。あのお店、気に入ってくれた? 今度、飲みに行きたくなったら、私、その日に入るから、先に教えといてね」
「ああ、また今度、のぞいてみるよ」

 私は、片肘をついて夏菜子に顔を向けた。
「あのう、」
 と、ゆっくり問いかける。
 夏菜子は天井を向いたまま、
「なあに、」
 と、屈託なく応えてくれたが、尋ねにくいことだったので、もじもじしながら、もう一度、
「あのう、」
 と声をかけると、
「どうしたの?」
 と、夏菜子は、私の顔をのぞき込んだ。
「日記見たよ」
「見るな」
「何があったの?」
「何も、」
「・・・」
「ほんとは、お客さんから、何度もLINE聞かれて、めんどくさくなって教えてあげたら、しつこくされて。それで、店長に相談したの」
「大丈夫?」
「大丈夫。それに、もう誰にもLINE教えないって店長と約束したから」
「そう、なら大人のおもちゃは?」
「えっ」
「Yさんの日記に出てた大人のおもちゃ?」
「ああ、あれ。吉田さんが持ってきて、見せてくれただけよ。あんなの使ってないし、あんなので遊んだことなんかないよ」
「そっか」
 夏菜子は、
「他のお客さんのことなんか聞かないの」
 というと、私の鼻を、まるで、ぬいぐるみのくまさんの鼻を押すみたいに押してきた。

「あのね」
 今度は、夏菜子が切り出した。
「なんだよ」
「夏菜子の制服姿見せてあげようか」
「見たいけど。昔と比べたら、別人になってたりするやつか」
「ちょっと、待ってて」
 夏菜子はベッドを抜け出して、カバンの中からスマホを取り出してきた。
「見て、これが私」
 画面の中には、今より少しふっくらとした制服姿の夏菜子が写っていた。きちんと膝をそろえて写ってる。真面目な子だったんだと思いながら、
「夏菜ちゃん、かわいかったんだね」
 というと、
「今と変わらないねって、よく言われる」
「目元が、今の方がぱっちりしてるね」
「そうかな」
 私は、奥に見える二段ベッドが気になったので、
「これは?」
 と、指さすと、夏菜子はスマホを手に取って、
「ああこれ。弟がいるの。中学生くらいまでは、このベッドの上下で寝てたんだけど、お父さんが出て行ってから、弟がお父さんの部屋を使うようになって、私が一人で、このベッドを使うようになったの」
 と教えてくれた。夏菜子の両親が、夏菜子が高校に入る前に離婚して、それからは母親一人に育てられたことを、見せられた写真を通じて知らされた。

 夏菜子はスマホをカバンに戻し、ベッドに戻ってくると、仰向けに寝転んで、ゆっくりと話はじめた。
「私ね、来月くらいに、友だちと海外旅行に行くんだ。今まで一生懸命働いて来たから、卒業までに、それくらい、いいよね。こういう時のために少しずつお金貯めて来たんだけど、あともう少しで、旅行代金支払えそうなんだ。ああ、早く海外に行きたいな。海外なんて行くの初めてだし」
「海外って、どこに行くの?」
「ヨーロッパを巡るの。ああ、吉田さんが行ったイタリアにも行くよ」
「そうか、何日くらい?」
「2週間くらいかな。お土産買ってくるからね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
 夏菜子は、小学生が遠足の日を楽しみにするように、待ち遠しそうな顔をして、天井を見つめていた。
 大学生なら、普通行くはずの卒業旅行に、ようやく彼女も行くことができるんだと思うと、私までうれしくなってきた。
 それにしても、夏菜子は、なんでそこまでして「普通」にしがみついているのだろう。
 普通の大学に入って、普通に就職して、普通に旅行にも行きたい。普通、普通、普通……。 夏菜子がFラン大(とても入りやすい大学)かは知らないが、高卒は嫌だという理由だけで、無理して大学に入ったのはいいが、結局、お金に行き詰まって、風俗で働く羽目になった。
 就活をしたところで、風俗やバイトに明け暮れていたから、ガクチカ(学生時代に力を入れてきたことをエントリーシートに書く)も満足に書けていないだろう。今の時期になって、就職が決まってないのなら、絶望的だ。長年、面接に関わっていると、たいてい分かるのだが、面接に来た十人から一人を選ぶとすると、採りたい人に、だいたい票が集まって、他の九人にバラけることはない。普通なだけでは、採用されないのが現実だ。 
 旅行も、みんなが行っているから普通に行きたいだけなのだろう。なのに、こんなに苦労して、お金を貯めている。
 すべてが普通なんてありえない。何かが足りなくて普通なんだ。

 偉そうに夏菜子のことばかりなじっている私は、どうなんだ。
 苦労はしたものの、そこそこの国立大経済学部を出て、教授の薦めるままに、潰れる心配がなさそうな中堅の老舗に就職し、恋愛もろくにしてないが、親戚の仲介で結婚して、なんとか一軒家を建て、娘も大学に行かせた。傍から見れば、今でも夫婦円満のように見えている。恋愛と結婚は別物だといわれるが、愛情がなくても結婚は成立するし、続けられるのだ。
 でも、ずっと、これは本当の私じゃないと思っていた。「普通」であることにずっと縛られていた気がする。
 しかし、夏菜子と打ち解けてからは、夏菜子の優しさにすっぽりと包まれて、そんな「普通」から解き放たれた気がした。

 私がそんな考えに耽っていると、夏菜子が急に話しかけてきた。
「奥さん、まだクマちゃん抱っこしてるの?」
「ああ、まだクマちゃんと仲良しだよ」
「奥さんと仲良くしなきゃダメ。私と約束できる?」
「ああ」
 と返事はしたものの、その気はさらさらなない。
 夏菜子は、私の気持ちを見透かしたように、
「奥さんとのこと、今度、会った時に必ず報告すること」
 と、さも大事なことのように念を押してきた。
 私は、苦笑しながら、
「わかりました。必ず報告します」
 と、改まった口調で答えたが、どうしたものかと悩んでしまった。
 夏菜子と出会ってから、あちらの体調は、回復しつつある。しかし、どうも、妻と営む気には、なれないのだ。

 しばらく妻とのことを考えていると、夏菜子が突然、
「吉田さんは、私としたいと思ったことないの?」
 と、私の目を見つめて聞いてきた。
「えっ」
 何かの聞き間違いかと思って、夏菜子を見ると、
「私と、したい?」
 と、繰り返し聞いてきた。
 私は唖然として返す言葉を失ったが、なんとか取り繕って、
「このお店は、そんなことしゃダメなんだろう」
 と、うろたえながら答えるのが精一杯だった。
 夏菜子は、吹き出しそうになりながら、
「うそ、うそ。奥さんと仲良くするって言ったから、からかってみただけ。ごめんなさい。夏菜子が、そんなことするわけないでしょ」
 と、肩を振るわせて笑っていた。

 夏菜子と別れてから地下鉄の駅に向かうまでが、いつもやたらと寂しい。
 寂しさを紛らわすために、人の流れから外れて、コンビニの前で立ち止まると、何か用事でもあるかように、スマホを開いた。定例のメールが二、三通届いてるだけだ。会社に必要とされていないことを改めて思い知らされる。
 ふと、あの掲示板のことを思い出した。
 他のお客さんのことは知らなくていいと夏菜子に注意されたのだが、かまわず開けてみる。

「夏菜子にマジ惚れしたジジイがいて、何にもしないのに、長いこと入られて疲れたって言ってたよ」
「夏菜子は、してほしいのにな」
「夏菜子、エッチが好きなんだぜ」
「おれには、させてくれたよ」
「おれもだ」
 急いで、スマホのキーをタップした。
「夏菜子は、そんな子じゃないよ」
 すると、間髪入れずに、
「お前、かわいそうだな」
 と、書き込まれた。

 夏菜子は、そんなことする子じゃない。私が一番よく知っている。奨学金をもらいながら大学に通って、居酒屋で身を粉にして働いても、お金が足りなくて、疲れ果ててしまい、仕方なく、この仕事をしてるのだ。彼女が、そんなことするはずがなかろう。
 いったい誰が、こんな書き込みをしたんだ?
 夏菜子をよく思わない客だろうか。そういえば、以前、よく似た書き込みを見たことがある。
 それとも、同じ店の女の子に妬まれたか。客だけでなく、店の女の子も書き込んでいると聞いたことがある。
 そもそも、なんで、こいつは、夏菜子に何もしないのに長時間入り浸っている客がいることを知ってるんだ。もしかして、夏菜子が私とのことを誰かにしゃべったか。それとも、まさかとは思うが、夏菜子本人が書き込んだか。そのいずれかと考えるのが自然だろう。

 夏菜子かもしれない。

 夏菜子は、真面目で貧乏な女子大生を装って、私に色恋営業をかけ、夢中にさせておいて、身体を与える代わりに、たっぷり金を搾り取ろうと企てているのだ。だから、なかなか釣られない私にヤキモキして、「お前、かわいそうだな」と、あなどりながらも、けしかけてきたに違いない。
 だとすると、彼女が話してくれたことは全部作り話だったことになる。彼女を信じていたのに、だまされていたのだ。それにしても、居酒屋バイトと高校生だった頃の写真は本物だったのに。まあ、今更どうでもいい。

 それならそれで、夏菜子の策略にはまってやろう。どうせ他の客とはいいことをしてるのだから、私も同じ思いをさせてもらってもいいだろう。
 夏菜子の肉感的な身体には、以前から魅力を感じていたことは事実だ。さっき、「したい?」と誘いかけてくれたとき、「したい」と正直答えておけばよかっただけの話しではないか。何をいまさら躊躇することがあるんだ。
 私の腕の中で、あえぎ、もだえる夏菜子が見たくなってきた。

 そもそも、なんで今まで、夏菜子の身体がほしいという欲望がわいてこなかったのだろう。ただ、手をつないで、たわいのない会話をするだけでよかったのは、なぜだ。
 私は、夏菜子に憧れていただけなのか。
 「純愛」、この歳になって純愛。
 そういえば、結婚はしたものの、恋愛らしい恋愛はしたことがない。女性に憧れることはあったが、愛し合うという感覚は、今でも感じたことがない。愛されていると感じたことがないのだ。あの行為は、愛の確認といわれるが、いくら交わっても、私は愛情を感じない。
 でも、夏菜子は違うように思えた。恋愛ではないが、何かしら夏菜子から愛に近いものが感じられたのだ。
 さっき、夏菜子に「したい?」と問われたとき、身体は素直にしたいと反応したが、心の中では、純白な夏菜子を汚してはいけないと思っていた。だから応じなかったのだ。夏菜子のいうとおり、私は、かわいそうなやつなのかもしれない。

 もういい。夏菜子の色恋営業に、まんまと乗せられたからには、身体の関係を求めることにしよう。一度は、誘いをかけてきたくらいだから、拒むことはないだろう。
 丁度いいことに、卒業旅行に行くと言っていたから、旅行代金の足しだといって、お金を渡すことにしよう。
 私は現金を下ろして、夏菜子に次の予約を入れた。

   ★

 そして今日、くすりを飲んでから一時間が経った。

 懐には、かわいい猫のイラストが描かれた封筒を忍ばせている。新札を十枚入れておいた。これで不足はあるまい。
 くすりも完全に効いている。
 地下鉄の階段を駆け上がると、外は、さっきと同じカッとした晴れ。太陽は、少し傾きかけているが、まだ真昼の勢いを残していた。
 五分前に、いつものホテルに着いた。
 しばらく横断歩道の方向を眺めていると、向こう側から、青いワンピースに身を包んだ夏菜子が近づいてきた。
「お待たせしました」
 いつもと同じ親しげな笑顔だ。今まで、この笑顔に騙されていたのだ。
 部屋に入ると、コーナーのテーブルに対面して腰かけた。私は、懐にしまってあった封筒を取り出すと、テーブルに置いて、夏菜子に差し出した。
「卒業旅行に行くんだったね。おこづかいもいるだろうし、これ、使ってくれないかな」
 自分で言っても気持ち悪い、下心が丸出しではないか。
 夏菜子は、大切そうに封筒を手に取って、中身をちらっと見ると、すぐさま、テーブルに置いて、私に突き返した。
「吉田さん、私、旅行は自分のお金で行くことに決めてるの。居酒屋さんで稼いだお金で。そうしたいのよ。ここでもらったお金じゃ楽しめないと思うんだ。自分でしっかり汗かいたお金で行きたいの。だから、このお金返すね」
 まさかの展開に私は驚いた。夏菜子は、お金を与えさえすれば、誰とでも寝るのではないのか。それとも、十万円では足りないというのか。
「夏菜ちゃん、気にしなくっていいんだよ。旅行に限らなくても、自由に使ってくれればいいんだ」
すると、夏菜子は憮然とした態度で、
「私、こういうの嫌なんです。前にも言ったと思うんだけど、吉田さんには、こういうことしてほしくないんです」
 なんで、私はダメなんだ。しだいに怒りが込み上げてきた。
「なんでダメなんだ。この前は、君から誘ってきたじゃないか。ひとに色恋営業かけておいて、何を今さら、そんなことを。君は、お金をもらえれば誰とでもするんだろう。わかっているんだよ」
 と、すごい剣幕でまくしたてた。

「違うのよ。吉田さんは違うの。だから、落ち着いて」
 夏菜子は、身の危険を察し、椅子から立ち上がると、少し後ずさり始めた。しかし、運の悪いことに後ろはベッド。つまづいて、仰向けに倒れこんでしまった。
「夏菜子、なんで俺はダメなんだ。なんで俺だけ拒むんだ。金は渡したろう。夏菜子、頼む、お願いだから、いうことを聞いてくれ」
 私は、夏菜子をベッドに押し付けると、勢いよくワンピースの裾をたくし上げた。
 ワンピースの隙間から、激しくバタつく太ももと、その奥に隠された白い下着が見えてきた。
 こうなると、止まらない。
「何で俺じゃ、ダメなんだ。俺の何がいけないんだ。そんなにキモいのか。なら、もっとキモいことをしてやろう」
 私は、夏菜子の下着に手をかけた。
「何でこんなことするの。吉田さんは違うのよ。そりゃ、他のお客さんとお金もらってしたこともあるけど、吉田さんとは無理なの。吉田さんには、ずっと手を繋いでてほしかったのに」
 夏菜子の抵抗を押さえつけ、下着を足首まで引きずり下ろした。
「どうして、俺は無理なんだ」
 夏菜子の抵抗がますます激しくなって、押さえきれなくなると、私は、ついに夏菜子の首に手をかけた。
「どうして、どうして······」
 うろたえる夏菜子は、意識が薄れる中で、かすれるような声を絞り出して叫んだ。
「おとうさん」
 その時、私は、後頭部にガツンと激しい痛みを感じ、夏菜子の上に、おおいかぶさるように倒れ込んだ。
 薄れゆく意識の中で、夏菜子が誰かと話す声が、かすかに聞こえていた。

   ★

 夏菜子の上で倒れている吉田の背後には、すりこぎを持った居酒屋の大将が仁王立ちで吉田を睨んでいた。大将は、オナクラの店長も兼ねているのだ。
 吉田の下から這い出してきた夏菜子に、店長は、
「大丈夫か。間に合ってよかった。それにしても、なんでこいつは、ここまで夏菜子に惚れ込んだんだ?」
「うぶだったのよ。でも、私も悪かったのかもしれない。この人、お父さんに似てるの。だから、この人と話していると、離婚してどこかに行ってしまったお父さんと話してるみたいで、温かくって落ち着けたの。それが、この人を勘違いさせたみたい。そのうち、この人を安心させたくなって、ちゃんと普通に暮らしているところを見せたくなったの。だから、あの日だけ、大将に頼んでお店に出さしてもらったのよ。ほんとは、ちっとも普通の女の子じゃないのにね。こんな私を好きになってくれたみたい。お父さんとお母さんみたいに離婚してほしくなかったから、奥さんと仲良くしてねって言ったのに。こんなことになるなんて」

 店長は、うつぶせのまま動かない吉田を見ながら一言いった。
「お前、ほんとうに、かわいそうだな」

(おわり)

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