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次の自分を想像すること

人生も、ターニングポイントをゆうに過ぎている。
もう一回何かにチャレンジするか、そろそろ人生の集大成について考え始るかという、そんな狭間の50代。

60.65歳のリタイアという時点では、いろいろなことが億劫になりだすだろう。たとえば全く新しいことをするにしろ、移住をするにしろ、新しいことを始めるなら、やはり60歳までには着手しておきたい。
そう思うのは自然なことだと思っている。

いままでの人生において、プライベートでも仕事でも、だいたい5年、10年計画でものごとをみてきたつもりだ。
それでも着実に実行するというより、漠然とした思いだけでも、
40代までは人生計画はだいたい成り立ってきた気もしている。
しかし、50歳を超えて大きく変わったことがあった。

それは顕著な体の変化だった。

そういえば、今までの計画の中に体調の変化を考慮することは、正直なかった。自分の人生の中に盛り込む計画は、たいていのことはうまくいった気がするし、多少の計画変更があったとしても、まあまあ納得のできるところに収まってきたと思う。たとえふがいないことやつらい経験も、今となっては人生をより豊かにしてもくれたし。
しかし、50歳を境に初めて「老い」という未知な次元を意識したのだ。
40代では徐々に体力が落ちるなどがあるにしろ、老いを感じることなどなかった。今回ばかりは、頭の中でこの2文字を意識した。
いや認識したという方が正しいのかも。

その時いままでのようにはいかないのだと悟り、カウントダウンも意識すべきなのかもとふと感じるようになった。
もちろん50代の10年は、カウントダウンにはもちろんまだ早い。
でもこの10年を無計画に過ごせば、想いに体も気持ちもついていかなくなるだろうことだけはわかる。

自分がこのさき、本当は何をしたいのか?
そのためには、何をすべきか?

これをきちんと想像して過ごす10年は、未来の私に有利に働くはずだ。
いままで私は仕事を中心に、生活をしてきた。
もちろん仕事があることのありがたみ、そしてそれをできるだけの体力があることは幸せなことだ。でも少し疲れている自分も知っている。
だからこの先、もう少し自分という個体に寄り添ってもいい気もしたのだ。かならず人生には終わりがあるのだから、個の自分とも一度しっかり向き合いたい。いつしかそう思うようになったのは、やはり老いを感じたからなのだろう。

私は、この先どんな風に生きたいのだろう。
どこで何をしたいのだろう。
残りの時間をどんな目的意識でいたいのだろう。
そのために、しなければならないことはなんだろう。
どんな終活をしたいのだろう。

まだまだ動ける50代のうちに、きちんと道筋を立てておかないと、いざという時体力も気持ちの余力おろか、資金的な余裕もないということは十分にありうる。闇雲に生きてしまった結果、そんな人はごまんといわるわけだ。
40代までは、仕事も生活もがむしゃらでもやってこれた人生。
それでも楽しく元気にやってこれた人生。でももうそうはいかないらしい。体も心も、休息や仕事以外の楽しみを求めるようになったは、頭の隅っこで認識していた。
ならば、じっくりと今の土台を生かしていく人生にシフトしたいと思うのは、至極当たり前のこと。みんなそうしてこの狭間の年代を試行錯誤しながら過ごすのだろう。
人は、この「老い」ということを意識したときに、タイムリミットがあることにようやく気づき、自分の人生を改めて振り返るのではないかと思う。
そこからのスタートダッシュが早いか、惰性で走るかはその人次第なのかもしれない。

私はこの先仕事を安定させたら、次の世代に引き渡す役目が待っている。
それは早ければ早いに越したことはない。いつまでも固執することは、自分のためにも次の担い手のためにもいいことではない。だからこそ、個人的興味のある活動に新たな1歩を踏み出して、そのための多拠点生活をしたいと思っている。しかし、今の体力ではそんなに動き回れないだろうことも予測がついた。ならばこの10年(正確にいうともうあと9年)をそこにむかっての準備に充てるべきである。構想としても体力づくりとしても、何事も意識することが重要な気がする。自分で意識し決定していくことがカギなのだと思う。
なぜならば今の自分は、10年前の自分が準備してくれた贈り物だと感じているからだ。あの時、計画を立て、見極め、努力したことが未来の自分を支えていると思うと、今日からの自分もよりよい「私」であるための準備だと思う。
さあ、私の新たな計画を、果たして60歳の私は成し遂げているのだろうか。
未来の私を想像しながら、てくてくと道をつくっていこう。

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