いじめの再定義 1
改めて文科省の提唱するいじめの定義を書いておきましょう。
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
しかし実際には、いじめと思われる自殺等が起きた時に学校や第三者委員会がいじめはなかったと判断するニュースがよく見られます。
なぜこのようなことが起きるのか、この章では書いていきます。
150万円とってもいじめじゃない?
昨年(二十九年)の一月に横浜市の教育委員会がとんでもない考えを示しました。
原発事故で横浜市に自主避難してきた生徒がいじめを受けていた問題で、生徒側が同級生におよそ150万円を払わされていた行為をいじめと認定するよう生徒側が求めたのですが、横浜市教育委員会はそれについて認定は難しい、つまりいじめではないという考えを示したのです。その理由については関わった子ども達が「おごってもらった」と答えていたからだとしました。当然これは世間から非難轟々になります。
しかし、同じようなケースはとてもよく見られます。暴行を受けたような場合でも、教育委員会などの調査でいじめはなかったという結論がでることをテレビのニュースで見たことがある人も多いのではないでしょうか。
暴力があってケガをした場合でも、ふざけ合ってる中で起きたことだとか、相手も了承していたという判断がされてしまうことがあります。
いじめを飲酒運転事故に例えると
ほとんどのケースがそうとは限りませんが、こういったいじめ認定では不思議なことが起きることがあります。
特に被害者が遺書を残さず自殺した場合などはいじめではなかったとなることがあります。
これを飲酒運転に例えると理不尽さが分かるでしょう。
飲酒運転で交通事故を起こしてしまった場合、ただの業務上過失(交通事故)より犯罪は重くなります。仮に実は飲酒していなかったということがあとではっきりしたとしても、当然、交通事故を起こしてしまった罪は消えません。
しかし、いじめでは不思議なことが起きます。お金を恐喝したとされるような場合に、それがいじめでなかったと判定されると、恐喝もなかったことになってしまうのです。横浜のケースでは、自主的におごったからという判断で恐喝がなくなってしまいます。厳密には恐喝でないからいじめもないという判断になるわけですが、これはかなり理不尽な裁定です。
しかも、不思議なことにその判断をするのは警察や裁判所ではなく、学校や教育委員会といった教育機関なのです。こんなことは常識では考えられません。
いじめの定義を変える
なぜこんなことが起きるのか。
実はこれがいじめの本質であり、私がいじめの定義とするべきとするものなのです。
改めて、私のいじめの定義を述べます。
『暴力や恐喝など様々な加害行為があった時に、その集団の持つ空気や暗黙の了解などによって、その加害行為が加害行為と見えなくなる現象』
ちょっと固いので、もう少しシンプルにこの定義を書き換えます。
『集団の影響でその集団内で悪いことが悪いと判断されなくなる状態』
行為ではなく、その行為が見過ごされる理由をいじめとするのです。
このいじめの定義で横浜の恐喝の事例を見てみましょう。
150万円という大金を盗られたのは犯罪のはずです。しかし、学校関係者はその犯罪性をないものとしました。この犯罪を犯罪と見えなくしてしまった現象をいじめと定義するというのが私の意見です。
これからは従来のいじめの定義と区別する為に私の定義したいじめを「いじめ」と表記します。
この定義変更に何の意味があるのか、よく分からない方もいるでしょう。
有名ないじめ事件を例に「いじめ」を具体的に見ていきます。
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